東條英機を見て感じた人情のつれなさ、日本人の便所に来たパール判事…速記者たちが語った「東京裁判」秘話
「勝者の裁き」か「文明の裁き」か
東京裁判の最中の22年、衆院選に初当選した元首相の中曽根康弘氏はこう振り返る。
「あの裁判に対して痛切に感じていたのは、勝者が敗者を裁いているということだ。しかも、裁判手続や訴因を勝者が自分たちで決めてやっている裁判で、公正な国際裁判とはいえないと思っていた。実際に政治家としてそう主張していた」
前述の粟屋名誉教授は、「東京裁判は、海外の法学者による再検討など、最近になってやっと多角的に研究されるようになった」と話す。そして、次のように座談会記事を読んだ感想を述べた。
「今まで知られていなかった速記者の地道な黒子としての役割が見えた。講和条約が締結されて間もないころで、肩の荷が下りた時期だったからこそ、気軽に話しているのだろう。東京裁判での言語の問題は非常に複雑だった。モンゴル人が証言した際には、モンゴル語から中国語、中国語から英語や日本語に訳していたほどだ」
速記者が戸惑いながらも記録し続けた東京裁判とは結局、何だったのか。中曽根氏が指摘したように、勝者の裁きでしかなかったのか、それとも検察側が主張したように、「文明の裁き」だったのか。そもそも、戦争を裁くことができるのか――。
いまだ決着がついていない難題だが、少なくとも昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争の残り火は、終戦後、東京裁判が始まってもなお、くすぶり続けていたのは確かである。
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