東條英機を見て感じた人情のつれなさ、日本人の便所に来たパール判事…速記者たちが語った「東京裁判」秘話

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日本語について用意周到だった米国

 通訳についてはあまり評価は高くなかったが、法廷記録業務を仕切る米国の言語担当者らの優れた日本語能力に感嘆したとの発言も見える。

〈向うでは、戦争中から将来日本を占領したときに備えて、相当日本語を教育していたようですね。日本版の英和や和英の辞書の複写版が配布されていたが、そういうところはなかなか(原文はくノ字点)手まわしがいいと感心しましたね。〉

〈ぼくは向うでできた日本人の姓氏の辞典の厖大なやつを見て驚いた。ローマ字で引くとカワイの所に川井、河井、河合、川合……と漢字で出ている。〉

〈向うの対日政策の一つの現われですね。言語将校といいますか、そういうものが完成されていたんですね。日本語学校で、林というあのときのモニターが教官をしていたわけです。そういうふうにして、戦時中から日本を統治する準備ができていたんです。〉

人情のつれなさを痛感

 裁判は開廷から2年半後の23年11月12日、被告に対する判決言い渡しが終わり、ようやく終結した。判決では、ウェッブ裁判長が被告人全員を「有罪」とし、東條(条)英機、広田弘毅、土肥原賢二など計7人に絞首刑を言い渡している。座談会の終盤、出席者らは6年前の裁判をしみじみと振り返っている。

〈戦争中の東条は、われわれ(原文はくノ字点)が養成所に入つたころは首相で、さつそうと馬に乗つて来て、われわれ(原文はくノ字点)が養成所の前でおじぎすると、挙手の礼を返した。それを見ててまた法廷の東条を眼のあたりに見たということは、実に感慨無量というか何とも言えない気持でした。〉

〈肩書きや肩章をもぎとられた人間の姿というものがどんなものかということをあすこで見せつけられたこと、それから戦争中は大いに太鼓をたたいて、東条さんでなければ夜も日も明けなかつた人が、掌を反すがごとくに今度はその悪口を言う、その人情のつれなさというものを身にしみて感じさせられた。それが今日ではまた占領行政の悪口を言い、復古をとなえるというのだから、ますます(原文はくノ字点)もつて考えさせられますね。〉

 速記者の努力の賜物である「極東国際軍事裁判速記録」は後に刊行され、東京裁判の一級資料となった。だが、速記者養成所は4年前の平成18年に最後の卒業生を送り出した後、閉所された。国会で録音機械やビデオを使用するようになり、速記者に頼らない方法が主流になったためだ。「衆友」も5年前、最後の号を630部ほど発行し休刊した。

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