【東京裁判・開廷から78年】カネの問題、最も苦労したことは…速記者10人が語っていた裏話
衆議院だけでやるぞ、との決意
そして、「衆議院速記者だけによる担当」にこだわった根拠として、時代背景を感じさせる次のような説明が続く。
〈当時(二十一年初め)われわれ(原文はくノ字点)の月給が八十円か百円、とても食えない。ほかに収入もない。その時分、インフレーションがそろそろ(原文はくノ字点)進行しかかつているときで、みんな困つていたんだ。だからこの仕事を何とか衆議院の方に持つて来れば、新円であろうが、旧円であろうが、とにかく手当は出るに違いない。そんなところからこれに食いついたわけです。〉
戦後の混乱期、とりあえず収入を確保したいという事情もあったわけだ。36年から約40年間、衆議院記録部の速記者や記録部幹部として勤務した浅水信昭さん(69歳)=東京都大田区在住=は、この冒頭部分に興味を抱いた。
「戦後間もなくは、国会の前庭に畑を作ってイモを植えていたほどの食糧難でしたからね。22年の新憲法施行に伴う帝国議会から国会への移行期とも重なっていて、てんやわんやだったはずですよ。ただ、激務ながらも、衆議院だけでやるぞ、との決意が感じられます。衆議院と参議院とでは、速記符号や文化、気風が違ったことも独占した理由でしょう」
国会と東京裁判の「二足の草鞋」
当時は戦争などのため人手不足が深刻で、現場に出る速記者は現在の3分の1ほどの30数人しかいなかった。衆院事務局は慌てて速記者の大量養成を開始し、23年には60数人に倍増している。国会と東京裁判の「二足の草鞋」は、名誉ではあっても現場の速記者にとってかなりの重労働になったのだ。
速記者席が設置されたのは法廷の中央で、中堅やベテランの「主」任速記者と補佐役を勤める「副」担当の2人1組ずつ、30分ごとに次の番の者と交代して執務した。
裁判が始まってしばらく後、日米の速記者、日系米国人を中心とした通訳、通訳のまとめ役のモニターらが執務するガラス張りのブースが法廷内に設置され、速記者は「主」が法廷中央、「副」がブース内に配置されるようになった。座談会では、法廷で協力し合った通訳、モニターについて触れられている。
〈モニターは伊丹、林、小野寺などが、フィリッピンの本間裁判を終えてから来た。(略)伊丹という人は、日本語が日本人と同じようにしやべれたね。ジョージ・長野というのがいたが、これがむつつり屋で、人づきが悪い。ところがあとで服部ハウスに入つたら、こんなにいい人間だつたか、と驚いたくらいだ。〉
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