実働はわずか1年半…大洋「スーパーカートリオ」はどのように生まれ、消滅したのか?
3人で計148盗塁を記録
この3人が足でかき回し、一発のあるレオンや田代富雄がポイントゲッターになる。そんな作戦が見事にハマったのが、85年6月16日の阪神戦だった。
1回に岡田彰布のタイムリー、3回に掛布雅之の2ランで3点を先行され、打線はゲイルの前に6回まで3安打無得点に抑えられていた。
だが、大洋はゼロ行進を続けながらも、加藤、高木がバント安打、屋鋪と加藤が二盗を成功させるなど、序盤から足で揺さぶり、ゲイルを心身ともに消耗させていく。
そして7回、ゲイルの疲れに乗じて四球とエンドランでチャンスを広げ、代打・高木由一が中前タイムリー。さらに2死後、加藤、屋鋪の連打で一挙同点に追いつくと、8回に田代の決勝2ランが飛び出した。
この結果、首位・阪神は2位に転落し、大洋は首位・広島に3ゲーム差の3位に浮上。7月以降、黒星が先行し、V争いから脱落したものの、足で魅せる積極果敢な野球は、チームを活性化し、ファンを楽しませた。
近藤監督は3人で最低100盗塁、できれば120盗塁を期待していたが、同年は高木が42、加藤が48、屋鋪が58と3人で計148盗塁を記録。盗塁王こそ「73」の広島・高橋慶彦に譲ったが、同一チームの3人が40盗塁以上を記録したのは、現在でも“唯一無二”の快挙である。
「スーパーカー」か、「スポーツカー」か?
ところで、スーパーカートリオは、当初は“スポーツカートリオ”と呼ばれていた。評論家時代の長嶋茂雄氏が最初にスポーツカートリオと命名したが、後に近藤監督が「今流行りのスーパーカーに」と改名したとされている。高木豊や屋鋪も同様の証言をしているが、その一方で、長嶋氏が「スーパーカー」と言い間違えたのがきっかけで定着したという正反対の異説も伝わっている。
ちなみに、「週刊ベースボール」では、1986年3月31日号まで「スポーツカー」、同年4月の開幕カードで大洋が前年の覇者・阪神を3タテした直後の4月28日号以降から「スーパーカー」に変わっている。「スポーツカー」も意外に長く用いられていたことがわかる。
だが、86年後半以降は、加藤が右足首の故障でほとんど出場できず、トリオも半ば解散状態に。近藤監督も同年限りで退任した。
3人のスピードスターが一世を風靡したのは、85年の開幕から86年前半戦までの実質1年半ながら、今もスーパーカートリオの呼称に郷愁のような懐かしさを覚えるファンは少なくないはずだ。
[2/2ページ]