【市川猿之助事件から1年】“主役”不在の澤瀉屋のいま 歌舞伎界は前代未聞の異常事態に
あの人が澤瀉屋に残っていれば……
また、演劇ジャーナリストは、「やはり、市川右團次(旧・市川右近)を澤瀉屋から“放出”したのは、松竹の失策だったような気がします」と残念がる。
「旧名・右近は、門閥外の出身ながら三代目の一番弟子として、まるで生き写しのように芸を継承していた。“家や血脈に頼らない歌舞伎”を実践する三代目の思想を、もっとも体現していた役者でした。このままいけば、いつか四代目猿之助を継ぐか、それは無理としても、三代目の“身代わり”となって澤瀉屋を引っ張っていく存在になると、誰もが思っていたのです」
しかし、突如として、三代目の“直系”である中車と團子、そして甥の亀治郎(四代目猿之助を襲名)が入ってきて、“家や血脈に頼らない”はずだった三代目の方針は一掃された(すでに三代目は病床の身だった)。
「そうなると、周囲は、血脈でない右近の存在に困ってしまう。そこで市川宗家が預かっていた〈右團次〉の名跡を81年ぶりに復活・襲名させて、澤瀉屋から出ていってもらい、たったひとりの〈高嶋屋〉に移籍させた。以後、彼は成田屋(團十郎)で助演をつとめています。おなじく、血脈でない市川春猿・市川段治郎も新派に移籍し、河合雪之丞・喜多村緑郎と改名させられました。右近も段治郎も、ヤマトタケルは四代目より多く演じています。もし彼らがいま、澤瀉屋に残っていたら、三代目時代の空気そのままに、この危機を軽々と乗り切っていたはずです」
しかし、禍福はあざなえる縄のごとし。いまとなっては、もうどうしようもない。松竹は四代目の今後については、まったくの白紙といっている。しかしこれほどのドル箱役者を、放っておくはずがない。執行猶予があける2029年ころまでは“謹慎”がつづき、やがて演出や監修のような立場で参加、次に一場面のみの特別出演的な役柄から舞台復帰するのでは……と囁かれている。
「それまでは、いまの陣容で、澤瀉屋の人気演目を再演していくしかないでしょう。たとえばこの7月は、歌舞伎座で『裏表太閤記』が出ます。これは1981年4月に、三代目が明治座で、昼夜二部通しで初演した澤瀉屋一座の超大作です。ところが――今回、その正式外題が『千成瓢薫風聚光』(せんなりびょうたんはためくいさおし)となっているのです。初演時は『千成瓢猿顔見勢』(せんなりひさごましらのかおみせ)でした。つまり「猿」の字を消して改題して再演するのです。松竹が、いかに〈猿之助〉のイメージ払拭に腐心しているかがわかります」
国立劇場の問題も
歌舞伎界には、もうひとつの暗雲が垂れ込めている。国立劇場の再開場問題である。
「昨年10月、老朽化による建て替えを前提に、国立劇場が閉場しました。しかし、新築業者を決定する入札は二度にわたって成立せず、半年以上たったいまもそのまま。2029年に予定されていた再開場が遅れることは必至で、それどころか、もう再開場は不可能では、なんて声もあるくらいです」(演劇ジャーナリスト)
結局、劇場は閉場したが、図書閲覧室は2月から再開した。「これがいかに国際的に恥ずかしい状況であるか。日本国民は、もっと真剣に受け止めるべきだと思います」と、演劇ジャーナリストは口角泡を飛ばして力説する。
「建て替えの見通しも立っていないのに、先に閉場してしまう。よって半年たっても、工事がはじまらないどころか、どこの誰が工事を請け負うのかも決まっていない。世界中に、こんなナショナル・シアターが、あるでしょうか」
この問題に警鐘を鳴らしつづけている早稲田大学演劇博物館の児玉竜一館長は、「月刊正論」5月号で、こう述べている。
〈プロ野球・巨人の本拠地である東京ドームが将来、移転するという噂がある。(略)仮にこのさき東京ドームが移転するとして、「東京ドームは予定通り閉めたが、本拠地は確保できていない。何年後にできるかも不明」と言ったら、プロ野球ファンが納得するだろうか〉(「伝統の灯消える危機感の共有を」より)
「歌舞伎をご覧にならない方は、歌舞伎座や新橋演舞場でやっているのだから、いいじゃないかと思われるでしょう。しかし、それらは松竹がやっている“民間興行”で、国立劇場は根本的にちがうことをやっているのです」
そもそも、国を代表する古典演劇を、一民間企業が独占に近い状態で、商業演劇として成立させている点が世界的にも珍しいことなのだ。
「松竹の歌舞伎は、名場面だけを抜粋して上演する〈見どり〉です。これに対し国立劇場は、改訂整理は加えるものの、基本的に全編を上演する〈通し〉と、埋もれた作品を発掘する〈復活狂言〉が特色です。たとえば、澤瀉屋といえば『義経千本桜』の宙乗りが売り物ですが、これは三代目猿之助が、1968(昭和43)年4月、国立劇場で上演したのが最初でした。歌舞伎座での宙乗りは、その2年後です。意外と国立劇場は進取の精神に富んでいるのです。数年前、尾上菊之助がNiziUの縄跳びダンスを劇中で披露して話題になりましたが、これも国立劇場だったんですよ」
いま、国立劇場主催の歌舞伎・文楽は、民間ホールをわたり歩きながら、“さまよえる”公演をつづけている。だが、会場ごとに舞台機構がちがうので、たとえば文楽では、大阪の国立文楽劇場で上演できたのに、東京の民間ホールではできない、なんていう情けない事態も発生している。
さらに問題なのは、歌舞伎や能楽、文楽、大衆芸能などの伝承者を育成する養成事業がスムーズにいかないことだ。
「昨年の『マハーバーラタ戦記』などの名演で読売演劇大賞・選考委特別賞を受賞した中村芝のぶは、養成所第9期生です。いまや澤瀉屋のベテラン女形、市川笑也は第5期生。CM『勘定奉行におまかせあれ~』の中村京蔵は第6期生。そのほか、先述の河合雪之丞、喜多村緑郎も養成所出身です。もちろんみんな、門閥外の出身。さらにいえば、もともと血脈継承の慣習が少ない文楽界は、現在80数名いる技芸員の約6割が養成所出身です」
その養成事業はつづいてはいるが、別会場で点在しているため、様々な不都合が生じているらしい。修了公演なども、そのたびに会場を探すしかないのだという。
ちなみに、次代国立劇場は、民間資金を導入するPFI方式での新築が決まっている。ホテル、レストラン、ショッピングモールなどの総合テナント・ビルとなり、その低層階に次代国立劇場が入ることになっている。いうまでもなく、インバウンド需要目当てである。要するに「国」が、カブキ・ホテル・飲食をワンセットで売り出すのだ。
「海外に、こんな国立“雑居ビル”シアターがあるとは、聞いたことがありません。イギリスのロイヤル・ナショナル・シアター、オーストリアのウィーン国立歌劇場、フランスのパリ国立オペラ(ガルニエ宮)……比較するのも恥ずかしい」(演劇ジャーナリスト)
かくして、いま歌舞伎界は、人気役者は自殺ほう助罪で“謹慎”中、ナショナル・シアターは工事すらはじまらず閉鎖中――前代未聞の異常事態なのだ。
「もし今年中にでも国立劇場の改築業者が決まり、大特急で2029~30年ころに再開場できたとします。ちょうどそのころ、四代目猿之助の執行猶予があけるはずです。松竹もすぐには起用しにくいでしょうから、いっそ、次代国立劇場は、四代目の復帰公演でこけら落しをしてはどうでしょうか」(同)
もちろん冗談だが、それくらいのことをやらないと、国立劇場を覆うこけら=木くずは、落とせないかもしれない。