“不仲エピソード”だらけの昭和演歌二大巨頭 「三波春夫」に先立たれた「村田英雄」が思わず漏らした一言
暗黙の了解はきちんとついていた
しかし、本当のところ、2人の仲はどうだったのか、なぜライバル視されるようになったのか。これには、村田英雄自身の解説が的を射ている。
「なぜ、俺と三波がライバルに見られたか、というと同じ浪曲畑から歌謡界へ転進、のケースだからさ。(中略)その上、風貌、性格、雰囲気などの違いも取り上げられる。俺はゴツイ、三波はソフト、といった対比だよ。(中略)八方破れで遊び好きの俺、堅実で蓄財型の三波といった具合だ。酒を飲み、ギャンブルに狂う俺。片方は、禁酒禁煙、ゴルフが趣味で品行方正、落差があるよ。
女のほうにかけても、決して人後に落ちない俺。堂々と、どこへでも出かけて遊ぶ。三波は、前座の女性歌手との仲が怪しい、と噂が出たとたんに、『そういう噂の出るのは、わたしの不徳です』。即座にその歌手をクビにしたんだよ。エライ……。俺なら、『そうか、でも、俺のタイプじゃない』。そういって、平気でそのまま前座を務めさせるよ。ワハハハハ。(中略)
ま、そういうことで、俺と三波は犬猿の仲のライバル、というのが世間の通り相場になったんだ。だがね、ふたりは、全然そんなことはない。大笑いしながら、『どうぞ、どうぞ、いわせるものにはいわせておけばいい』。暗黙の了解はきちんとついていたんだよ」(双葉社「週刊大衆」平成5年4月26日号)
わだかまりなんてありえない
三波の長女で「三波クリエイツ」社長の八島美夕紀さんも、「2人の間にわだかまりなんてありえない」と言う。
「村田さんは、私の母を昔から知っていて、『ねえさん、ねえさん』と気さくに呼んでくれた。歌手というのは自分のオリジナリティを確立して生き残るのに必死で、舞台で3センチ横に誰が立とうが、気にしている余裕もないんです。確かに売り出す側とすれば、『2人は好敵手だ』とした方が話題性がある。周りの戦略が2人をライバルにしたんでしょう」
些細なことで目くじらを立てるには、2人とももはや、大物になりすぎたということもある。
三波に先立たれると「寂しいなぁ」
その晩年も全く対照的だった。三波は、親交のあった永六輔が、「歌う学者」と呼んだほどの勉強家で、平成10年には『聖徳太子憲法は生きている』(小学館)という本も出版。
かたや村田は、ビザ申請の性別欄に堂々「週3回」と記入したとか、飲み屋に行って「おい村田だ! ボルト出せ!」と言ったとか、2人が共演する舞台で「三波は上手から、村田は下手から登場」という指示書きを見て、「どうしてオレがヘタなんだ!」と怒ったとか、天然ボケの“村田語録”がバカ受けして、一躍ヤングの人気者となった。だが、糖尿病の悪化でついには両足を切断。
それでも意気軒昂だったが、平成13年4月、77歳の三波に先立たれると、「何となぁ、寂しいなぁ」と絶句。
「おれが右足を切断した時に心配して電話をかけてきてくれた。彼の活躍がおれには刺激であり励みだった。全然、犬猿てなもんじゃないよ」
そう言っていた村田英雄も、三波の後を追うように、翌平成14年6月に73歳で他界。本物の芸人魂が息づいていた昭和という時代の型破りのライバル譚である。
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