“不仲エピソード”だらけの昭和演歌二大巨頭 「三波春夫」に先立たれた「村田英雄」が思わず漏らした一言

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テレビ初共演で互いにそっぽを向く

 他にも不仲を物語るエピソードには事欠かない。たとえば、昭和37年の村田の「王将」30万枚突破記念公演で、三波は羽織袴の正装で村田の舞台に上がり激励した。ところが、今度は村田が、三波の歌舞伎座公演に返礼の陣中見舞いをした時のこと。そのいでたちがアロハシャツにサングラスだったというので、三波が激怒したという。

 かと思えば、こんな逆のケースも。村田が三波の公演にお祝いの薬玉を贈った。と、どうしたことか、劇場に並べられた薬玉には、「三波春夫賛江、村田英雄より」と記した木札がはずされていた。村田側が、「失礼なことをする」と憤慨すれば、三波側は「いや、うちはそんなことはしていない」という具合。

 2人がテレビの歌番組で初共演したのは昭和39年3月の「ロッテ歌のアルバム」だが、この時も、ラストの乾杯シーンで互いにそっぽを向き、関係者をあわてさせた。以来、紅白歌合戦の楽屋で顔を合わせても知らんぷりだったとか。

 2人の性格、生き方もおよそ対照的だった。村田は大酒飲みで、体を壊しても飲み続け、千人は超えると豪語する女遊びに3億円使ったという武勇伝の持ち主。それに対して三波は、のどを守るために酒たばこは一切やらず、浮いた噂などトンと聞かない、芸能界では珍しいほどの謹厳実直ぶりだった。

2人を握手させた日本興行界のドン

 この2人の対立に“雪解け”が訪れたのが昭和51年10月。日本興行界のドン・永田貞雄が中に入り、突然の手打ちを果したのだ。

 それは、永田の子息の結婚披露宴の席上だった。永田は、共に出席していた三波、村田両人を舞台に招き、2人に向かい、

「あんたたちはどっちも浪曲から出て日本一になった2人なんだから、これからも仲良く手をつないでやっておくれよ」

 と言って、2人を握手させたのだ。

 昭和57年にもNHKの歌番組で手打ちショーを行ない、長年の犬猿の仲も恩讐の彼方かと思いきや、昭和63年になって再び雲行きが怪しくなった。

 ことの起こりは、その前年に、紅白出場辞退を宣言した三波に対し、村田が、「紅白こそ、歌い手の証を示す最高の舞台だ。理由は何であれ、歌っている以上、絶対に出るべきだ。あれでは負け犬と同じじゃないか」と噛みついたこと。

 すわ、ケンカの再燃か? と芸能マスコミは色めき立ったが、村田側は、真意が曲げられて伝えられたと言い、三波側は、「紅白に出るか出ないか、考え方は十人十色。2人の仲は別に悪くない」とかわして、火種を消すのに懸命だった。

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