兄の娘との背徳的な関係、妊娠を知りパリへ逃亡…島崎藤村は実体験を描いた“問題作”をなぜ執筆したのか

エンタメ

  • ブックマーク

『新生』はなぜ書かれたのか

 しかし長兄、次兄が道ならぬ結婚を許すはずもなかった。こんな八方塞がりの状況下で、『新生』の執筆が始まるのである。

 新聞連載を知った広助は、すぐに藤村と義絶し、こま子を台湾の長兄のもとに送ってしまう。以降、藤村とこま子は二度と会うことはなかった。身をからめとる愛欲、金銭苦に片をつけることになった『新生』の執筆は、ある意味で藤村の老獪な一手だったとも言われる。

 一方で、別の視点もある。

 藤村の『新生』を、彼の父をモデルにした明治維新期の大作『夜明け前』に連なる序章と位置づけ、「『夜明け前』連峰」の一角と見るのは、元時事通信編集委員の梅本浩志である。著書『島崎こま子の「夜明け前」』で梅本は、『夜明け前』を書くにあたり、藤村は「異常な性的関係の家系」について、予め書き尽くし、文学的に完結させておく必要があったのだと論じている。

 梅本の研究によれば、藤村が血の問題に着想し『夜明け前』の構想を練り始めたのと、こま子との関係にはまっていくのは、ほぼ同時期だ。つまり、近親愛に踏み込んでしまった自分を省みた藤村は、同じ血の騒ぎに身を委ね、最後は心を病んで座敷牢のなかで死んでいった父・正樹の存在に行き着いた、というのである。

忌まわしい破綻を抱えた山中の名門旧家

 藤村が生まれた島崎家は、木曾谷の宿場町・馬籠宿の本陣、問屋、庄屋の三役を兼ねた土地の名士だった。平田派の国学者として村内に大勢の門弟を抱えていた正樹は、妻・ 縫との間に7人の子をもうけるも、2人は早世している。あろうことか、長女・園子は晩年、嫁ぎ先で父と同じように心を病んで生を終えた。

 長男・秀雄はのちに、東京で事業を起こし、馬籠のほとんどの財産を処分する。母の実家に子入りした次男・広助は、朝鮮で事業をしたのち、木曾谷の山林問題に携わり東奔西走するようになる。こま子は、朝鮮滞在中に生まれている。

 そして三男・友弥である。西丸は前掲の著書で、彼が母の不倫の子であったという、島崎家の秘事を明かしている。「正樹様には異母妹との妖しい関係がございましたし、(中略)縫様には魔がさしたのでございましょう。稲葉屋の主人との間に生れたのが友弥様なのでございました」という。

 村内の行者のような男に肌を許した母と、父の近親愛、父と姉の心の病という破綻を抱えた山中の名門旧家に、後年、四男・藤村の筆が向かったのは、作家として当然の帰結であったのかもしれない。

次ページ:私はどんなになってもかまわない

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。