離婚しても夫婦漫才を続けた「唄子・啓助」 「世にも汚い男」「才能があって頭がよかった」2人が遺した言葉でみる「本当の関係」

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「唄子は才能があって頭がよかった」

 もっともほかの劇団からは、ふたりを役者として迎え入れたいという申し出もあった。

「そやのに啓ちゃんが“唄子、漫才をやって3年辛抱してくれ。そしたら、もっと大きい劇場で、いまより大きい女優にしたる…”というて転向しましたんや。最初は舞台に出るのがいやで、ワアワア泣きましたわ」(「週刊平凡」昭和51年2月26日号)

「京唄子」は、このときに啓助が付けた芸名だ。軽いコントから入った唄・啓が、漫才コンビとして本格デビューしたのは、昭和31年の春。

 前出「アサヒ芸能」にある啓助の唄子評である。

「才能があって頭がよかった。漫才の台本を舞台に出る30分前に書いても、ちゃんと覚えてこなしましたからね。唄子といっしょでなければ、あんな漫才できなかったやろうな」

「大口」「カッパ」と相手をこきおろしつつも嫌みのない掛け合いに客が笑い転げ、活躍の場はテレビ、ラジオへと広がっていく。とりわけ、昭和44年から始まったテレビ番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」での人間臭い司会ぶりは、視聴者の共感を呼んだ。「おもろい夫婦」は、放送16年にも及ぶ長寿番組となった。

ついに別離もコンビ解消は回避

 しかし順調な仕事の裏で、夫婦関係は波乱続きだった。一向にやむ気配のない啓助の浮気を黙認し、芸のためにふたりの子どもを堕ろしてきた唄子だったが、結婚11年目の昭和38年、ついに別離に踏み切っている。

 引き金は、啓助が入れ込んだ女性の妊娠だった。相手は、唄子の後輩にあたる若手女優で、やがて彼女が啓助の3人目の妻となる。

「啓ちゃんに子どもができたと、弟子の口から聞いたときは、これでみんなおしまいやと思いましたね」(「女性セブン」昭和51年6月9日号・桂三枝との対談)と、のちに唄子は涙ながらに告白している。

 しかし関係者の説得もあり、ふたりは崖っぷちでコンビ解消を踏みとどまるのだ。同じ対談で唄子はこう続ける。

「急に相手変えても、うまくいきませんよ。私が他の人と組んでもだめ、啓ちゃんが他の女性と組んでもだめですね」

 啓助もそれを認めつつ、一切を割り切った心のうちを、「けっきょく、仕事に対してガメツイから、としかいいようがおまへんな……」(「週刊平凡」昭和43年8月29日号)とやや自嘲気味に表現している。

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