離婚しても夫婦漫才を続けた「唄子・啓助」 「世にも汚い男」「才能があって頭がよかった」2人が遺した言葉でみる「本当の関係」
啓助の最初の妻は漫談家
大正12年に大阪の天王寺で、非嫡出子として生まれた啓助の本名は、小田啓三。父は三味線問屋の主人で、母は弟子入りしていた女浄瑠璃師だった。
2歳で父と死別した啓助は、母の結婚により、3歳のときに山口県下で田舎芝居一座を率いていた祖父のもとへ預けられる。転校続きで学校にはほとんど通わず、一座の旅暮らしのなかで育つ。役がつかない時期には、呉服屋や洗濯屋へ奉公にも上がった。
祖父と死別し、頼った母の家庭にも馴染めず、16で大阪に流れてきた彼が、漫談家の吾妻ひな子と所帯を持ったのは20歳のころ。一女をもうけたその生活は、妻のハワイ巡業中に精を出した浮気がもとで、6年ほどで破局した。
妻のシャレを真に受けて口説いた27人
啓助が、「アサヒ芸能」平成3年7月18日号で語った「おんなと自分史」である。
「留守中に、自分がどれだけモテるか試してみたらエエワ」という妻の言葉に従い、出航を見送った啓助は、ファンや仕事場の女性を端からくどいた。
「結局、3カ月で27人とデキた」彼は、相方の評を逐一日記にまとめ、帰国した妻に丁寧に報告したという。これが彼女の逆鱗に触れ、「シャレでいうてんのを、本気にするやつがどこにおる!」と家を追い出されるのである。
せっせとくどき落としたその27人のなかに、当時、啓助が役者兼座付き作家として活躍していた「瀬川信子劇団」の人妻女優・京唄子がいた。劇団には俳優であった彼女の夫もいた。
「そのころボクは台本も書いててね。夜中、舞台の上に小机置いて裸電球の下で原稿書いていると、コトコト足音がする。深夜に唄子がとっくり持って出かけようとしてるんですよ。(略)旦那はふだんはいい人なんやけど酒乱だった。酒買って来いいうて殴ったり蹴ったりすんですワ」
そんな彼女に同情し、一緒に酒屋を探し、相談に乗り「ゴタゴタしてるうちにデキてしまった」と言う。やがて事情が座長に知れ、啓助が一座を去ることになる。
唄子が抱いた第一印象は「世にも汚い男」
当初の芸名を京町歌子といった京唄子は、京都の生まれで、父は「東西屋」(ちんどん屋)の親方だった。一時は地元の大手製作所、簡易保険局に勤めた彼女だが、戦時中に慰問演劇に参加したことをきっかけに、戦後一転、劇団界に身を投じた。そこで知り合った20歳以上年上の夫との間に一女をもうけ、夫婦で小劇団を転々とする生活のなかで、啓助と知り合うのである。
「初めて会ったのは昭和27年ごろ。世にも汚い男でしたわ。ヒロポン打って、髪はボサボサで、いいかげんな人。ところがいろいろあって……」とは、啓助の死の直後、彼女が「週刊新潮」の追悼記事で述べた飾り気のない印象だった。
妻と別れ、「瀬川信子劇団」を退いた啓助は、宿無し状態で新劇団「人間座」を興す。ほどなくそこに、「旦那と別れてきたから、面倒見てちょうだい」と、唄子がふらりとやってくる。
新劇団に唄子が飛び込み、かたや、彼女が母親と住んでいた京都の家に啓助が転がり込み、妙な案配で互いの足下が固まり、新しい夫婦関係と二人三脚の仕事が船出している。
だが、芝居小屋を支えていた“娯楽に飢えた人々”の足が、ストリップ劇場に吸い込まれる逆風の時代だった。3年ほどのち、啓助もついに人間座の旗を降ろさざるをえなくなった。そうして打った次の手が、夫婦漫才だったのだ。
[2/4ページ]