こめかみを撃ち抜かれ、指にはエンゲージリングが…「ラストエンペラーの姪」が遂げた心中事件の真相 相手男性が悩んでいた“父親の問題”

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性に関連する血の悩み

 武道の死により、家業を継ぐことになった5つ違いの次男・宗朝は、かつて兄が父に抱いたであろう鬱屈した思いを想像して、重い口を開いた。

「反発? それはあったんじゃないかな。真面目で母親思いだったから、父のそういうところを、たぶん兄は受け容れられなかった。なにも知らずに、父が外でつくった子と遊んだことがあって、あとで厳しい顔をした母から『あんな子と、あそぶんじゃない』と叱られたこともあった。兄が教育者を目指したのには、父とは正反対の人生を送りたいという思いもあったんでしょう。高校生の兄が私に、よく言ったものです。俺は教育者になるから、お前が家を継げと」(次男・宗朝)

 家名の存続がお家の大事だった時代、長男・武道はほかの弟妹よりも特別に扱われたとも言った。その分武道は、家内の入り組んだ状況を誰よりも深刻に受け止めたようだ。長男の責務と父への嫌悪がないまぜになったまま、家業を気丈に切り盛りする母を哀れにも思った。

 武道は、東京での寄宿先だった新星学寮を主宰する思想家の穂積五一を尊敬していた。慧生との交際の節目、節目で、三度穂積の意見を仰いだ。一方の慧生も、明子を伴い別れの決意を、穂積に伝えに行ったことがある。

 その穂積に、武道は慧生との交際の過程で膨らむ性の衝動について、悩みを打ち明けている。彼のなかで性が暴れるたび、あの父の姿が大きく立ちはだかる。穂積は慧生と武道の遺簡集『われ御身を愛す』のなかで、「性に関連する血の悩みを彼はどれだけ深刻に悩んだことか」と記している。

2人だけの生活に備え貯金も

 どこから見ても不釣り合いな、恋人だった。慧生は、かいがいしく、彼の外観を変えようとした。武道も、素直に従った。背広やネクタイを一緒に選び、女性に対するマナーを教え、彼は慧生と出会ってからの1年半で見違えるほど洗練された。

 明子が言うには、「別人のような」変身ぶりだった。死の数カ月前になると、すでにふたりは、精神的に結婚しているような状況だった。2人だけの生活に備え、郵便局に貯金もはじめていた。

 昭和32年11月28日に慧生が武道に書いた手紙は、武道に対する揺るぎない信頼を感じさせる。

「私が対外的、社会的な場に於いて、また対友人関係において、どういう態度を示すかというようなことについては、家で生活しておりましても、ただ食事を一緒にして、雑談をするだけの家族には少しもわかってはおりません。私のすべてを、少なく ともいちばん多く知っていらっしゃるのは、何といっても武道様でございます」

 しかし、慧生の心を掴まえるのに神経をすり減らしたせいか、武道はその年の夏ごろから、徐々に精神を弱らせていた。

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