「プロ野球時代より責任は重い」「死ぬ気で頑張れば…」元ヤクルト選手がソニー生命社員になって思うこと
前編【甲子園優勝校の4番打者は日ハム入団後、鳴かず飛ばず…心に沁みた同期入団・ダルビッシュの気遣いとは】のつづき
ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第9回は愛媛・済美高校からプロ入りした鵜久森淳志さん(37)。前編では北海道日本ハムファイターズに入団し、東京ヤクルトスワローズで現役引退するまでを伺いました。鵜久森さんが第二の人生に選んだのはライフプランナー。それを目指したきっかけや、現在の仕事への取り組みはどのようなものかを聞きました。(前後編の後編)。
「今度は自分が、支え、応援する側になりたい」
2015(平成27)年オフ、北海道日本ハムファイターズから戦力外通告を受けた。そして、18年には東京ヤクルトスワローズから再び自由契約を告げられた。二度目のトライアウト会場で出会ったのは、かつて千葉ロッテマリーンズに在籍していた青松慶侑だった。現役引退後、彼はソニー生命の社員となっていた。鵜久森淳志と青松は同学年であり、ともに05年に高卒でプロの世界に飛び込んでいた。
「最初のトライアウトのときにも、ソニー生命の方から名刺や資料を頂いていました。そして、二度目の時、青松や彼の上司も一緒に会場にいました。この時点では、“ソニー生命にお世話になろう”とは考えていなかったけど、いろいろと考えているうちに、“この会社で働きたいな”という気持ちになっていったんです」
二度のトライアウトを経て、「もう、野球人生に別れを告げよう」と腹は固まった。新たな道を踏み出すにあたって、「自分に何ができるのか?」「自分は何をしたいのか?」と自問自答を繰り返した。その結果、鵜久森は一つの方向性を見定める。
「自分の過去の経験を振り返ってみたときに、“自分はこれまで、本当に多くの人に支えられ、応援されてきたのだな”と気づきました。最初に日本ハムから戦力外通告を受けたときに、改めて人の大切さを知り、次にヤクルトをクビになったときには、“今度は自分が支え、応援する側になりたい”という気持ちが強くなっていました。“恩返しをしたい”、そんな気持ちになったんです」
スワローズ時代の鵜久森は、「報恩謝徳」をモットーに全力でプレーしていた。自分が受けた恩に対して、最大限の努力をして報いたい。そんな感謝の思いを込めた言葉である。そして今度は、「また新たな形で報恩謝徳を実践しよう」と考えたのである。
「過去の自分を振り返っているうちに、多くの人々の人生に寄り添うことのできるライフプランナーという仕事に魅力を感じるようになりました。いろいろな保険会社があるけれど、“ソニー生命なら、自分がやりたいことができるのでは”と考えて、入社試験を受けることを決めました」
冒頭で述べたように、「元プロ野球選手」の肩書きを持つ同い年の青松がすでにソニー生命で働いていた。青松にも相談し、鵜久森は入社試験に挑むことを決めた。
「青松からいろいろアドバイスをもらって対策を講じて臨みました。最終面接は、現役時代のサヨナラホームランを放った時の打席と同じくらい緊張しましたね。面接は2時間半ほど続いたけど、ここまできたら自分ではどうにもならないのだから、“とにかく自分の思いをきちんと伝えよう”と臨んだら、何とか採用となりました(笑)」
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