甲子園優勝校の4番打者は日ハム入団後、鳴かず飛ばず…心に沁みた同期入団・ダルビッシュの気遣いとは
「報恩謝徳」の思いで駆け抜けた14年間のプロ野球人生
それでも現役を続けるつもりでいた。迷いなく合同トライアウトを受験すると、「右の代打候補」を探していた東京ヤクルトスワローズが獲得に名乗りを挙げた。首の皮一枚ではあるが、鵜久森に現役続行のチャンスがもたらされたのである。
「今から思えば、このときから野球に対する考え方が変わりました。それまでは、“自分のため”に野球をしていました。でも、ヤクルトに拾ってもらってからは“人のため”という思いが強くなりました。せっかくチャンスを与えてもらったのに、また同じ失敗をするわけにはいかない。自然と、“監督のために、ファンのために、家族のために”という思いが強くなっていったんです」
この頃、鵜久森は「ある言葉」に出会っている。
「たまたまネットを見ていたら、《報恩謝徳》という言葉を見つけました。自分が受けた恩に対して、最大限の努力をして報いたい。そんな感謝の思いを込めた言葉です。それは、当時の自分にすごくフィットした言葉でした。ヤクルト時代は、常に《報恩謝徳》の気持ちで打席に入っていました」
スワローズ移籍初年度には46試合、翌年には45試合に出場した。17年4月2日の横浜DeNAベイスターズ戦では、4対4で迎えた延長10回裏、1死満塁の場面で代打で登場すると、須田幸太からサヨナラ満塁本塁打を放った。
「あのとき、左ピッチャーのエスコバーから右の須田に代わりました。それでも、真中(満)監督は僕をそのまま起用してくれました。それはやっぱり、意気に感じますよね。あのホームランは忘れられない一発となりました」
結果的にこれが、鵜久森にとってのプロ生活最後のホームランとなった。18年オフ、再び戦力外通告を受けた。プロ生活14年で256試合出場、放ったヒットは111本、ホームランは11本。通算打率は2割3分1厘だった。再びトライアウトを受験したものの、どこからもオファーはなかった。こうして鵜久森は、31歳での現役引退を決めた。
「二度目のトライアウトは、自分でも“受からないだろうな”と思っていました。だけど、“これまで応援してくれたファンの方々に最後のユニフォーム姿を見てもらいたい”という思いで臨みました。野球人生に別れを告げるつもりでした。改めて、これからどうするかを決めるつもりでした」
そして、このトライアウト会場での出会いが、鵜久森の第二の人生に向けての指針となる。彼が選んだのはソニー生命、ライフプランナーとして生きる道だった――。
(文中敬称略・後編【「プロ野球時代より責任は重い」「死ぬ気で頑張れば…」元ヤクルト選手がソニー生命社員になって思うこと】に続く)