甲子園優勝校の4番打者は日ハム入団後、鳴かず飛ばず…心に沁みた同期入団・ダルビッシュの気遣いとは

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同期・ダルビッシュからの気遣い

 プロ入り後、ファイターズは鵜久森を「強化指定選手」とし、ファームでひたすら試合に出場させる育成方針を採用した。試合後には連日の特守 も行われた。試合においては、生きた投手のボールに慣れること。練習においては、最低限の守備力を身に着けることを目的としたのである。それでも、雌伏の時期は続いた。

「最初の数年間はずっと結果が出ずに、焦りしかなかったです。自分は守れない分、打つしかない。だけど、全然ボールが前に飛ばないし、三振も多い。だからといって、単打を狙って当てにいくタイプのバッターではないので打率も残らない。毎日悩んでいました」

 同期のダルビッシュはすでに一軍の主力投手として活躍していた。一軍本拠地の札幌ドーム(当時)で躍動する同期の姿を、二軍のある千葉・鎌ケ谷の選手寮で応援する日々。しかし、ダルビッシュもまた鵜久森のことを陰で支えていた。

「あるとき、ダルビッシュから食事に誘われました。聞けば、当時の西武の中心選手だった中島(裕之/現・宏之)さんと栗山(巧)さんも一緒にいるということで、“せっかくの機会だから、いろいろ質問すればいいじゃん”って、僕のことを気遣ってくれたんです。でも、あまりにも緊張しすぎて、何を聞いたのか、どんなことを話したのか何も覚えていません(笑)。だけど、ダルビッシュの気持ちはすごく嬉しかったです」

 同期でありながら、ダルビッシュに対しては「ずいぶん遠くに行ってしまったな」という思いを抱いていた。だからこそ、その気遣いがかえって心に沁みた。それでも、なかなか結果が出ない日々が続いた。プロ7年目に待望の初ホームランを打ったものの、その後もブレイクを果たせず、次第に活躍の場は減じていく。気がつけば後輩の陽仲壽(現・岱鋼)、 中田翔の後塵を拝することとなっていた。

「当時はいつも、“そろそろ戦力外通告を受けるかも……”という思いでした。現在のように育成制度があればとっくにクビになっていたはずです。だから、日本ハム球団には感謝の思いしかありません。期待されているのはわかっているのに、その思いに応えることができない。今から思えば、日本ハム時代はずっとそんな感じでしたね……」

 そして、ついに「そのとき」が訪れる。15年オフ、鵜久森は戦力外通告を受けた。プロ11年目、28歳の秋の日のことだった。

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