【光る君へ】一条天皇とラブシーン… 高畑充希演じる「中宮定子」のあまりにも浮かばれない近未来

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家同士の争いに翻弄された犠牲者

 翌長徳3年(997)6月に一条天皇は、変わらずに寵愛する定子を、三后に関する事務を執り行う職曹司に戻している。当時、出家したはずなのに宮中に戻った定子と、彼女をこうして寵愛し続ける一条天皇への批判が強かったことは、藤原実資の日記『小右記』の記述からもわかる。そして、一条と定子の関係は、道長にとっては焦りにつながった。定子から皇子が生まれたら、権力基盤が揺さぶられかねないからである。

 長保元年(999)、定子がふたたび懐妊し、竹三条宮に退出することになると、道長は同じ日に宇治への遊覧を企画して公卿たちを呼び、彼らが定子のお供をしないように妨害している。さらには、道長はまだ12歳にすぎない長女の彰子の入内を急ぎ、11月1日に一条天皇のもとへ入内させた。7日には彰子を女御にするという宣旨が下っている。

 だが、折しも同じ11月7日、定子は待望の第一皇子である敦康親王を出産した。これによって、道長の焦りは倍加しただろう。そこで、道長はとんでもない奇策を思いつき、強引に実現させた。兄の道隆は、中宮が皇后の別称であることを利用し、ほかに皇后がいるのに定子を中宮にした。とはいえ、皇后と中宮は別の天皇の后だった。ところが、道長は同じ一条天皇のもとに皇后と中宮を置く「一帝一后」を実現させてしまった。

 その後も、一条天皇は定子を寵愛したが、長保2年(1000)12月、第二皇女の媄子を出産した定子は、後産が下りずに亡くなってしまう。わずか24歳だった。しかし、悲しみを隠そうとしない一条天皇に参内を求められても、道長は参内しなかった。

 その後、定子が産んだ敦康親王は、中宮彰子が養育したものの、寛弘5年(1008)、その彰子が敦成親王を出産したのちは、道長は第一皇子であるにもかかわらず敦康親王をぞんざいに扱うようになった。結局、第一皇子としてはきわめて例外的に、皇位継承権も奪われてしまう。

 定子は道長の姪だった。親族だったのである。しかし、この時代、狭い親族間での権力争いが、熾烈に繰り広げられた。 それに敗れた中関白家(道隆の血統)は、以前、道長と敵対した反動もあり、徹底して嫌われることになった。それにしても、家の隆盛のために利用され、翻弄された挙句、24歳で命を落とした定子は、『ロミオとジュリエット』のジュリエットにも擬せられる犠牲者ということもできるだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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