大型バス3台を引っ張る「怪物レスラー」に1万人のファンが歓喜…伝説のパフォーマンスに意外な証言「力道山が怒り出して…」
取材記者が明かした意外な事実
それにしても、大型バスを4台引っ張るなど、普通では考えられない。そんなことが可能なのだろうか?
筆者の親族が東京・大田区にあった力道山の自宅の近くに住んでいたこともあり、当時を知る記者に会ったことがある。スポーツ紙の記者だったM氏は、意外な事実を明かしてくれた。
「力道山がねぇ、バスが一向に動かないことに、凄く怒ったんだよねえ。そしたらバスが動き始めた。で、私がふと、先頭の車両を観ると、運転席に人がいるんだね。おかしいな、と思った。最初、観た時は、いなかった気がしたからね」
“あくまで推測だけど”とした上で、M氏はこう語った。
「エンジンをかけてあげたとか、進み易く便宜をはかってあげたんじゃないかなあ」
この時の力道山自身の、こんな発言も残っている。
〈あのとき私は条件のよい下り坂を選んではと彼にいったのだが“自分は上り坂であろうと下り坂であろうと、そんなことは問題ではない。大勢のファンの前で全力を出して引っぱって見せる”と答えた。その気持ちは実に立派だと思った〉(「スポーツニッポン」1961年5月16日付)
しかし、アントニオは力道山がトップを務めた日本プロレスに、2度と呼ばれることはなかった。理由は、マネージャーのグレート東郷が、彼の羽田空港での初登場時に評していた言葉にあった。
「彼は少し頭が弱いので……」
実は最初の羽田空港での大暴れも、仕込み済みではなく、アントニオ自身が勝手におこなったものだった。「人が多くいて、カメラのフラッシュもあったので、暴れなければと思ったようだ」(グレート東郷)。前出のM氏は語る。
「他の選手からは、嫌われてましたね。というのは、彼は試合前、必ず散歩をするんですが、帰って来ると、自分が大きく載ってる新聞を携えてるんです。それで言うには、『俺のお陰で客が入ってるんだ』と」
こうした言動が元で、カール・クラウザー(後のカール・ゴッチ)やミスターX(ビル・ミラー)に私的な制裁を食らわされたことは、プロレス・ファンの間では知られた話だ。
絵本になった「未知の怪物」
その後、アントニオは1977年、新日本プロレスに登場。10月28日に開幕する年末シリーズの開幕戦に突然現れたが、実際に試合に出始めたのは11月18日からだった
「観光ビザで入国しててね。それをワーキングビザに切り換えるのに手間取って」とは、当時のフロント、新間寿氏から聞いた話だが、そのまさにその18日、アントニオ猪木との一騎打ちが正式発表された。日時、場所はシリーズ最終戦となる、12月8日の蔵前国技館大会だった。
既にこの時、アントニオは52歳となっていたが、開幕から日本に居続けたそのパブリシティ効果は絶大だった。11月3日には銀座の歩行者天国に現れ、松屋デパート前に設置された机に座り、大食漢ぶりを披露。そのメニューの一部を披露すれば、「若鶏の丸焼き10羽、子牛のバーベキュー10本、レタス4個」etc……11月20日の午後1時半からは、新日本プロレスの常宿である京王プラザホテル前でバス引っ張りパフォーマンスが披露されることとなり、4000人の見物客が集まった。
もっとも、道交法などを理由に中止に。やむなく、アントニオが、他にバスを引ける場所を探し歩くと、ギャラリーもそれについて移動するという珍しい光景が見られた。猪木は一騎打ち決定直後から、「二度と日本に来られないようにする。3分以内にケリをつける」と発言。これに、大会の主催者である東京スポーツが紙面で、「どちらが何分で勝つか?」というクイズで回答を公募した。
結果は、猪木が容赦ないシュートファイトを展開。うつ伏せになったアントニオの顔面を蹴り上げ、3分49秒、KO勝ち。アントニオの鼻は骨折した。後に、このシリーズでもアントニオの横暴が過ぎ、「(猪木との試合に)天皇を呼べ!」などと要求していたことも明らかになった。猪木は試合後、こうコメントした。
「ストロング・スタイルの強さを骨の髄まで味わわせ、徹底的にやった」
アントニオは2003年に死去。2014年、筆者が手伝っていたプロレス・ムックの編集作業で、彼の元マネージャーへの取材が実現した。そこで猪木と戦った時には健忘症がかなり進行していたことが明かされると同時に、意外にもこんな証言を得た。
「とにかく、優しい人でした。相手をやっつけるとか、そういう気持ちは無かったんじゃないかな」
同じ年、母国カナダの出版社から、彼を主人公にした絵本が出版された(「Le Grand Antonio」)。見返しには、バスや列車が描かれ、中には大量の肉を食べる様子やバスを引っ張る姿が描かれているがファイト・シーンもあり、そこにはフランス語で、こんな意味のことが書かれている。
「彼と戦うなんて愚かなことです。彼は世界中で闘います。日本の王者とも……。10人まとめてでも闘います!」
その後に子供がその髪に楽しげにブラ下がる姿が描かれ、こんな言葉が続く。
「よく子どもたちに囲まれ、しがみつかれています。まるで人間の乗り物なのです」
日本で初めて引っ張ったバスに乗っていた子供たちは、東京・板橋の施設から招待された肢体不自由児たちだったと、当時報道されている。その夜、乱入した大会の合間、アントニオがミゼット・レスラーたちと楽しそうに歓談する姿も目撃されていた。
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