本場の王者たちを驚嘆させた「日本人ゴルファー」がいた “パンチ・ショット”を生み出した戸田藤一郎の人生(小林信也)
「天才おやじ」
私生活の無茶苦茶ぶりも半端ではなかった。大酒を浴び、女遊びが大好き、借金を作って他人のクラブを勝手に売りさばくなどして、ゴルフ界を追放された時期もある。
「努力している姿は他人に見せず、人の前では豪放磊落に遊ぶ。練習は夜中にこっそりひとりでやる」
それが戸田の美学だった。けれど、ゴルフ場から追われては元も子もない。姿を消している間、戸田はギャンブルや賭けゴルフで稼いでいたといわれる。その間の真相はよく分からない。
59年、プロ復帰を許された。すでに45歳。それでも戸田は活躍した。63年、日本オープンに48歳で優勝。日本プロシニア5連覇を含め、復帰後10勝を飾っている。77年10月のゴルフダイジェストトーナメントでは初日トップに立ち、新聞を痛快な見出しで彩った。
《トップに62歳・戸田》
《ボギーなしの「68」》
《若いの何しとるねん!“天才おやじ”高笑い》
年を重ねても戸田は戸田らしさを失わなかった。
69歳で亡くなるまで、晩年は村上隆にパッティングを指導し賞金王に導いた。青木功は80年全米オープン直前に戸田とラウンドし、ジャック・ニクラウスに次ぐ2位に入った。83年には不調に苦しむジャンボ尾崎に助言を与え、戸田の死後86年に尾崎は復活を遂げた。戸田は次代のトッププロにも多大な影響を与えた。