本場の王者たちを驚嘆させた「日本人ゴルファー」がいた “パンチ・ショット”を生み出した戸田藤一郎の人生(小林信也)

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 ゴルフ漫画の原作を依頼されたことがある。30年以上も前の話だ。天衣無縫なキャラクターを主人公にしたくて、実在した名選手の伝説を調べた。その中で最も奔放で豪快な印象を受けたのが、トイチと呼ばれた戸田藤一郎だった。

 戸田は1914年、神戸市生まれ。まだ草創期、ごく一部の富裕層がゴルフに興じた頃、自宅近くに日本で2番目にできたゴルフ場(横屋ゴルフ・アソシエーション)があったのが幸運だった。一度は閉鎖された場所に22年、甲南ゴルフ倶楽部が設立された。戸田は小学生の頃からゴルフ場に出入りし、キャディを務めながら客のプレーからゴルフを学んだ。

 33年、廣野ゴルフ倶楽部が開場するとプロ助手として入社。仕事の傍ら、練習に打ち込んだ。徹底した猛練習は、戸田のゴルフを支える土台だった。廣野では、200ヤード先にある松に向かって連日数百本、時に1000本以上もアイアンショットを打ち込んだ。その松がしまいには枯れてしまったという。

 その特訓が、後に戸田の代名詞となる5番アイアンの〈パンチ・ショット〉を生み出した。打球は高さ10メートルより上がらず、ほぼ地面と水平に飛びながら全然落ちない。その鋭さ、正確さに海外のレジェンドたちも舌を巻いたと伝えられている。PGAツアー通算82勝、メジャー通算7勝を誇るサム・スニードが日本人プロからレッスンを申し込まれた時、「私なんかより、日本にはミスター・トダがいるじゃないか」と答えた逸話が残されている。オーガスタを創った球聖ボビー・ジョーンズでさえ、エキシビション・マッチで戸田とラウンドし、パンチ・ショットに目を丸くした。90年近くも前に、本場の王者たちを驚嘆させる日本人ゴルファーが実在したのだ。

 18歳の時、当時のトッププロ宮本留吉を1打差で破って初優勝。「天才出現」と騒がれた。その後も関西プロ優勝、20歳で日本プロを制覇。36年には台湾出身の陳清水とともに日本人で初めてマスターズに出場、29位に入った。39年には24歳で日本オープン、日本プロ、関西オープン、関西プロをすべて制覇し、年間グランドスラムを達成した。

胸躍る開拓者

 戦歴や怪物伝説だけを並べると、いまと同じ洗練された試合を想像されるかもしれない。だが、それは全然違う。何しろ90年も前の話だ。戸田が生きていた時代の状況は、当時の新聞記事をたどると浮かび上がってくる。アメリカが今よりずっと遠かった、何もかも世界に距離のあった30年代に日本選手がゴルフバッグを抱えて転戦する困難さ、一方で胸躍る開拓者の気概もしのばれる。

 36年7月18日の読売新聞は《米国ゴルフ転戦四ケ月 戸田、陳帰る 賞金一千ドル獲得》と見出しをつけて次のように報じている。

『十七日午後二時羅府から横浜へ入港した三井物産汽船宇洋丸で米国遠征中だつたゴルフ選手戸田藤一郎(神戸廣野クラブ所属)陳清水(武蔵野クラブ所属)が帰朝した、四ケ月に亘り全米各地の大会に出場し、相当の好成績を収め戸田選手は一千百弗、陳選手は二百弗の賞金を得てゐる』

 続いて「一千弗以上の賞金は米人でもなかなか六ケしいことです」との戸田のコメントが載っている。

 この遠征中、オーガスタからの特電では、こんな記事も送られている。

「両選手の妙技は既に米国各地の専門家の賞讃を博し当地の大会でも斯界の前覇者ボビイ・ジョーンズの成績を遥かに抜いた程で、特に戸田の如きは小柄で僅々百十ポンドの体重しかないにもかゝはらず(中略)特に打出しは見事であつた」

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