「MAHARAJA」は劇団だった…全盛期のサウンドを作った男、DJ TSUYOSHIが語る「マハラジャ伝説」
当時はパラパラが嫌いだった
徹底したサービスはDJも同じで、店内が最も盛り上がる選曲の追求は当然。さらにTSUYOSHIさんはレコードプレーヤー以外の機材も導入し、サイレン音や爆発音、ドラム音などをリアルタイムで挿入するマハラジャ独自のスタイルを作り上げた。
ただし、機材を導入した真の目的は「パラパラ」を踊らずに済むことだった。ユーロビートの曲に合わせて主に手で踊るパラパラは当時生まれたばかり。盛り上がりの際にはその場にいる全員が同じ振り付けで踊っていた。
「パラパラが嫌いだったんですよね(笑)。でも、今は日本特有の文化だと思ってます。海外はビートで踊りますが、日本人はメロディで踊る。そういう国民性だから、パラパラは日本舞踊や盆踊りから続くものなんですよ。僕の外国人の友人も当時、300人くらいが同じ踊りで1つになってる様子を見て、『日本で一番楽しいのはマハラジャだ』って言ってましたね」
ユーロビートのリズムに乗って、バブル期のマハラジャは超人気ディスコとして君臨した。TSUYOSHIさんもCDのリリースやテレビ出演など、活躍の場を広げていく。
「バブル期って先はバラ色しかないんですよ。お笑いブームと重なってたから、日本中が笑って浮かれすぎてて、この先もどうにかなるって思うような世界でしたね。VIPのお客様に選曲を録音したカセットテープを3本渡したら、チップが10万円(笑)」
お前ら、ジョン・ロビンソンになれ
だが、バラ色の時代は長く続かなかった。バブル終焉が始まった1991年、マハラジャに大きな衝撃が走る。
「ジュリアナ東京のオープンです。やられましたね。いきなりお客様が入らなくなった。どんな店ができても崩れなかったマハラジャの城が初めて崩れたんですよ」
同年2月にオープンしたジュリアナ東京は、ボディコン、お立ち台、ジュリ扇で社会現象を起こした。「ジュリアナ~ト~キョオ~!」の叫び声で有名なメインDJのジョン・ロビンソンは、英国の北アイルランド出身。駆け出し時代から日本で活動し、TSUYOSHIさんにとっては年齢的にもキャリア的にも“後輩”だ。
「お客様が入らなくなった時、成田社長の下にいた常務がDJを集めて言ったんですよ。『お前ら、ジョン・ロビンソンになれ』(笑)。なれるわけないですよね。日本人だし、英語も喋れないし。俺はむしろ、ジョンが歌ってた『TOKYO GO!』(93年)をかけるなと指令を出したんです。ケツ追いかけるのやめようぜと。ただ、東京以外の店舗ではかけちゃうんですけど(笑)」
現在のジョンはフィリピン在住だが、音楽活動の拠点は日本だ。激しく踊って声を出し、場を盛り上げるパワフルなDJプレイはジュリアナ時代と変わらない。ROPPONGIにもゲスト出演し、令和の今、マハラジャとジュリアナの融合を実現させている。
「ジョンはパワーがあるんだよね。みんなが彼を認めてる理由は、踊って歌いながらやって、お客様のために汗かいてるから。DJがほんとに好きなんだよ。DJ全員があそこまでやらなくていいけど(笑)、マハラジャの他のDJにも彼ぐらいの気持ちでやってもらいたかったんですよね」
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マハラジャとともにバブル期の日本を駆け抜けたTSUYOSHIさんは、次の舞台として米国を選んだ。DJとサーフィンを追求する米国生活は7年に及んだが、長年のハードな生活に身体が悲鳴を上げてしまう。現在の健康とバイタリティを取り戻すために尽力したのは、20年前に結婚した愛する女性だった。