【光る君へ】藤原道長の兄たちを次々と死に追いやり 日本の人口を激減させた感染症の正体
二大感染症はもがさと麻疹
さて、道長に権力の座をもたらすことになった正暦年間のもがさも、ある時点で流行がピタリと病んだようだ。しかし、寛仁4年(1020)にふたたび流行している。『栄華物語』巻七には、前回の流行から二十余年が経過し、警戒していたところに、案の定、流行したという旨が書かれている。
当時の人は、時間が経って免疫がない人が増えると流行する、ということを経験的に知っていたのだろう。事実、二十余年前に感染した人はこのときかかることはなく、その後に生まれた二十代以下の世代が集中的に罹患したらしい。
この時代、もうひとつ猛威をふるった感染症が麻疹、すなわちはしかで、最初に記録されているのが、藤原道隆と道兼が死去した3年後、長徳4年(998)の流行である。『栄華物語』には、「あかもがさといふもの出で来て上中下分かず病みののしる(赤もがさ=麻疹という病気が発生して、身分の上中下を問わずに感染し、大騒ぎになっている)」と書かれている。
麻疹はやはり二十余年を経た万寿2年(1025)にふたたび流行。敦良親王(のちのご朱雀天皇)のもとに嫁いでいた道長の娘、嬉子は8月3日、親仁親王(のちの後冷泉天皇)を出産したが、その直前にかかった麻疹が原因で、2日後にわずか18歳で命を落としている。
われわれも感染症の猛威に苦しめられたばかりだが、平安時代の人たちにとっては、命に直結し、国家のあり方や社会の様相が大きく変わりかねないほどのものだった。そして、藤原道長の栄華は天然痘の流行を機にはじまったが、その終わりにははしかの流行が影を差したのである。
[3/3ページ]