【光る君へ】藤原道長の兄たちを次々と死に追いやり 日本の人口を激減させた感染症の正体

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二人の関白が次々と死去

 当然だが、疫病は身分を問わない。正暦5年のうちは、公卿(国政をになう三位以上の上位貴族)は感染を免れていたようだが、翌正暦6年(995)になると、公卿たちも容赦なく襲われた。

 現在、『光る君へ』では、藤原兼家(段田安則)の死後、長男の道隆(井浦新)が後を継ぎ、摂政、続いて関白として栄華をきわめている。長女の定子(高畑充希)を一条天皇(塩野瑛久)に入内させたばかりか、強引に中宮(皇后)の座に就け、長男の伊周(三浦翔平)をはじめ身内ばかりを露骨に出世させている。だが、そんな権力者も、病の前には無力だった。

 道隆は大酒飲みで、持病の飲水病に悩まされていた。これは現代の糖尿病で、道隆に関してこの病名が最初に記されるのは、正暦5年11月13日付の『小記目録』なので、おそらくそれ以前から自覚症状があったのだろう。そして、年が明けて正暦5年(994)になったころから政務に影響がおよぶようになり、4月10日に死去している。すでに飲水病がかなり進行しており、それが死因だという説もあるが、そうだとしても、疫病に感染して死期が早まったとみる研究者は多い。

 このため、玉置玲央が演じている道隆の同母弟の道兼が後を継ぐ。ドラマでは、道兼は汚れ役を引き受けて父の兼家に栄華をもたらしながら、後継から外されて腐っていた。そんな兼家にようやく春が訪れ、4月27日、道兼を関白とする詔が下ったが、5月2日、一条天皇に関白就任御礼のあいさつをすると、そのまま立てなくなったという。疫病に襲われたのだ。5月8日にはこの世を去り、道隆は「七日関白」と呼ばれた。

 その結果、兼家の五男(正妻の息子としては三男)の道長(柄本佑)の時代が訪れるのである。

日本の人口の30%前後が死亡

 古くは古代エジプトやギリシア、ローマ帝国にはじまって、世界各地で大流行を繰り返したもがさ、すなわち天然痘だが、日本は島国なので流入が遅く、大陸との交流が活発になった奈良時代になってから、流行するようになった。

 これは飛沫をとおして病原体が体内に侵入する感染症で、高熱が出て全身に発疹が起き、発疹が化膿して死にいたった。運よく回復しても、あばた(痘痕)が残ることが多く、藤原道長の時代の人は男女を問わず、顔などにあばたが見られるケースが多かったという。一条天皇も天然痘にかかって治癒しており、顔に痘痕が残っていたのかもしれない。時代は異なるが、戦国大名の伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも、天然痘が原因だとされる。

 もがさがはじめて大流行したと考えられるのは、奈良時代の天平9年(737)のこと。 『続日本紀』によれば、天平7年(735)に九州で発生し、その後、全国に流行したという。前述したように、道長の時代も正暦4年(993)にまず九州から流行がはじまっており、ともに大陸から船で流入した可能性が高そうだ。

 事実、奈良時代のもがさは、天平8年(736)に聖武天皇が遣新羅使を派遣したことが命取りになったようだ。阿倍継麻呂を団長とする使節団は、平城京を出発して九州経由で新羅へと向かったが、その道中でもがさに感染。阿倍継麻呂も感染し、帰路に対馬で病死している。そして、残された一行が平城京に帰還したために、ウイルスが都に蔓延し、翌天平9年(737)には全国的な大流行になった。

 こうして、国政を担っていた藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂の藤原四兄弟が全員病死してしまった。天平10年(738)には流行がピタリと収まったようだが、それまでに、当時の人口の25~35%に相当する100万~150万人が死亡したと推計されている。

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