【光る君へ】藤原道長の兄たちを次々と死に追いやり 日本の人口を激減させた感染症の正体
ラストシーンが衝撃的だったのは、NHK大河ドラマ『光る君へ』の第15回「おごれる者たち」(4月14日放送)であった。まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)はさわ(野村麻純)と近江(滋賀県)の石山寺へ詣でた帰り道、川辺に降りてみると、川べりにはたくさんの遺体が転がっていた。
【画像】大河初?2話にわたって描かれた、まひろと道長のラブシーン
第16回「華の影」(4月21日放送)では、疫病の正体が描かれる。 まひろは以前、文字を教えたたね(竹澤咲子)という少女から、両親が救護施設である悲田院に行ったきり帰らないと伝えられる。そこで、悲田院へ赴くと、そこでは多数の疫病患者が苦しんでおり、まひろも感染してしまう。
むろん、まひろはここで命を落としはしないが、平安時代には、疫病すなわち感染症は死の病だった。戦乱こそ比較的少なかったこの時代だが、疫病は繰り返し流行し、人々の命を奪った。 現在、『光る君へ』で描かれているのは正暦5年(994)のことで、『栄華物語』にはこの年の最初の記事に、次のように書かれている。
「いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり(どうしたことか、この年は世の中が騒然として、春から病に倒れる人が多く、都の大路にも忌まわしいもの、つまり遺体があふれている)」
もがさ(痘瘡)と呼ばれたこの疫病は、昭和52年(1977)に地球上から根絶された天然痘だと考えられている。正暦4年(993)に九州で流行しはじめ、同5年4月ごろから京都でも猖獗をきわめた。『日本略紀』七月条には「京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり(京都では人口の半分が死亡し、五位以上の貴族だけでも67人が命を失った)」と記されている。
当時は感染症についての知識など皆無だから、対策といっても加持祈祷くらいしかなかった。疫病は猛威を振るうにまかされ、このときは都のあらゆる路頭に死体が転がっていたと記録されている。そのうえ、堀水も死体でふさがったためかき流す措置がとられ、犬やカラスは死体の食べすぎで飽食状態だったと伝わる。
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