「大吉原展」開催前には炎上騒動も…なぜ吉原はこれまで美術展のテーマになり得なかったのか

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炎上騒動も開催に

 東京・上野公園の東京藝術大学大学美術館で開催中の「大吉原展」(5月19日まで)が耳目を集めている。

 吉原といえば、江戸時代を通して大きな存在感を発してきた場。その名はいまも広く知られているが、吉原を真正面からテーマに据えた展覧会はおそらく史上初であるという。

 吉原がこれまで取り上げられてこなかった理由のひとつには、展示を構成しづらいことが挙げられる。遊女を描いた浮世絵などは残存するものの、建築や着物、日用品など、吉原の営為を伝える「モノ」があまり残っていない。

 また、現在の通念に照らすと吉原が、明らかな人権侵害のまかり通る場だったことも、吉原展がなかった理由だ。吉原を成り立たしめている経済基盤が売春だったのは明らか。前借金を返済し終えるまで遊郭を後にすることが叶わぬ遊女たちの犠牲のうえに築かれており、これを安易に取り上げては制度の容認と受け止められかねない。

 今展も開催を発表した当初には、告知に「ワンダーランド」といった文言を用いたため、女性が苦しんだ歴史を礼賛するのかなどとSNS上で「炎上」が起きた。そこで美術館側としては、「広報のあり方を見直し、展示のあり方の点検もしました」(東京藝術大学大学美術館・古田亮教授)との対応をし、そのうえで開催の運びとなった。

年中行事も絶えず開かれた

 人権侵害がまかり通る場だったことを踏まえたうえで、改めて吉原を眺め渡せば、そこは日本文化の集積地であることが浮かび上がってくる。衣装や道具類、生け花、舞踊音曲、書や和歌俳諧、絵画に文学、出版事業。吉原は贅と粋を尽くしたもので埋め尽くされ、さまざまな流行がここから発信されたのは、紛れもない事実だ。

 吉原ができたのはもともと1612年に江戸に遊郭を設置するよう、遊女屋が訴えたことがきっかけだった。1617年に設置が認められ、ほどなく、日本橋人形町付近を「吉原」と呼ぶようになった。それから約40年の月日が流れた1657年には日本堤へと移転。ここがいわゆる「新吉原」で、おおよそ東京ドーム2個分の広さだったという。お歯黒溝と呼んでいた堀に囲まれ、中心には幅18メートルの仲の町という主要路が通り、その両脇に茶屋が並んでいた。

 吉原では正月、花見、お盆、祭りなど年中行事も絶えず開かれ、伝統文化を守り伝えた。桜の季節になると樹木ごと持ち込んできてほうぼうへ植え、花が終わればまた持ち帰らせるなど、虚構の世界を徹底してつくり込んだ。

 さて、実際の展示はどんなものか。大きく4つに分かれた会場を順に巡ってみると、まずは導入編として「吉原入門」のコーナーがある。吉原の成り立ちや全体像、どんな日常があったかを史料や絵画で紹介している。

 優美な画面の美しさで目を惹くのは、喜多川歌麿の浮世絵版画《青楼十二時》シリーズ。美人画で知られる浮世絵師歌麿が、吉原の遊女の一日を2時間ごとに切り取っている。朝風呂に入ったり、手紙をしたためたり、客に盃を差し出したり。遊女たちの生活ぶりがこまごまと知れて、彼女たちの心情まで推しはかれるかのよう。

 ちなみに遊女の一日はざっと以下のような生活ぶりだった。

 起床は10時。朝食を摂ってから昼にかけ身支度をし、14時には昼の営業が始まる。夕方に夕食。18時から夜の営業だ。泊まり客がいれば、深夜24時の閉店以降、朝6時に客を見送るまでともに過ごすことになる。十分な睡眠をとることはできなかったようだ。

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