「だって私、女優だもの…」54歳で旅立った川島なお美さんの信念

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「だって私、女優だもの」

 最後に電話した時は、川島さんの病状を何も知らなかったという倍賞さん。電話口で苦しそうに咳をしている川島さんに「なお美ちゃん、そんなに頑張らなくていいんだよ」と言ったら、こう答えたという。

「千恵さん、だって私、女優だもの」

「じゃあ、頑張らないように頑張って」

「うん、分かった。頑張らないようにして頑張る。女優だから」

 と、答えたそうである。「女優だもの」「女優だから」という言葉に、川島さんの信念を感じる。

 葬儀では事務所の先輩でもある片岡鶴太郎さん(69)の弔辞も読み上げられた。川島さんが亡くなる20分前に見舞った時の様子。そのまま再現しよう。

「よく頑張ったねえ、最後まで女優だったねえ、美しいねえ、と話しかけたら、薄い意識の中で瞳を濡らした。髪も若々しかった。握った手の柔らかさ。ネイルもかわいかった。そのかわいらしさがいじらしかった。それさえも奪っていくのか。(中略)また来るからね、と病院を後にした。それから20分。(夫である)鎧塚さんからの電話。腰が崩れ落ちた」

「それさえも奪っていくのか」という言葉が痛切に響く。死は残酷であり、情け容赦ない。

 作家の林真理子さん(70)も弔辞に立ち、あふれる涙を抑えつつ遺影に語りかけた。

「いま日本中があなたの死を悼み、悲しんでいます。あなたはいつも時代を体現して見せてくれました。あなたの最愛の人、鎧塚さんを決して孤独にはしません。私たち仲間が、きっと友情で支えます。なお美さん、ありがとう。そして、さようなら。あなたは本当に美しくて素晴らしい人でした」

 死の3カ月前、友人で漫画家のさかもと未明さん(58)が撮影した写真が遺影となったが、吸い込まれそうな目で魅惑的なポーズを作ってくれたという。だが、その後、急激にやせ細ってしまった。がんが生きるエネルギーも奪ってしまったのだろう。心配した未明さんの連絡に対し、川島さんはこう答えたそうである。

「すごく疲れる。体が休みたがって悲鳴をあげている。会えるとしても来年ね」

 悲報が届いたのは、この1週間後だった。

 さて、ここで川島さんの経歴について簡単に振り返ってみたい。

 愛知県名古屋市出身。青山学院大学在学中に歌手としてデビューし、ラジオ番組でDJも務めた。「女子大生ブーム」の先駆け的な存在であり、レギュラーを務めたバラエティ番組「お笑いマンガ道場」(日本テレビ系・中京テレビ制作)で人気を集めた。この番組では出演者がイラストや似顔絵を描くのが常だったが、川島さんの場合は描くのが速く線に迷いがなかったそうである。「独特の感性に驚いた」と当時のプロデューサーは振り返っている。

 だが、芸能生活を始めた頃はお金がなくて苦労した。月給から家賃を差し引くと、小遣いとして残ったのは約3万5000円。服を買うのもやっとの思いだった。

 普段の生活では、いつもジーンズをはいていた。夕食はハンバーガー1個というのも珍しくなかった。一人旅が好きで、30歳の誕生日はトルコのイスタンブールで迎えたという。日本にいると何かと拘束され、周囲の目も気にせざるをえなかったが、海外だと一人きりの時間を存分に楽しめたそうである。

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