海軍大学校を首席で卒業「神がかり参謀」が見せた“天才的な戦術”と“頓珍漢な戦略”の落差
日本が戦争に敗れた理由は、兵器の性能や、兵力の差だけではない。指揮官の質にも大きな問題があった。
軍事史に詳しい大木毅さんの新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)は、日米英12人の指揮官たちの決断の背後に潜む「文化」や「教育」の違いに着目している。
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同書で取り上げられている軍人の一人が、日本海軍の神重徳(かみ・しげのり)。キスカ撤退戦などで水際立った才能を発揮する一方で、「捷(しょう)」号作戦や「大和」沖縄特攻など破滅的な作戦を次々に立案し、「神がかり参謀」と呼ばれた。
以下、同書をもとに、そんな神の生涯と戦歴をたどり、「戦術の天才」と「戦略の失格者」という二面性について見てみよう(『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第3章をもとに再構成)。
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神重徳は1900(明治33)年に鹿児島県の造り酒屋に生まれ、何度か受験に失敗しながら海軍兵学校へ進学。卒業後は砲術科の将校となった。またも受験失敗を繰り返しながら海軍大学校に進み、卒業時は何と首席だった。その後ドイツ駐在を命じられると、ちょうど政権を掌握したナチスに心酔。ヒトラーの崇拝者となるが、帰国後は日独伊三国同盟締結が世界大戦につながる危険性を認識し、不安を覚えていたようだ。
そんな神だが、こと戦術面に関しては強気の姿勢を崩さなかった。以下、その具体例。
・大本営海軍部参謀時代、真珠湾攻撃成功の後、連合艦隊を挙げてパナマ運河を叩くべしと上官に提言。補給困難を理由に却下される。
・第1次ソロモン海戦を立案。ガダルカナル上陸作戦の援護に当たっていた連合軍艦隊に完勝。艦上にていわく「これだから海戦はやめられないのさ」。
・アッツ島玉砕の後、キスカ撤退作戦に臨んで、躊躇する司令官を一喝。軽巡「多摩」に乗り込み守備隊の完全救出に成功する。
かくのごとく、前線では「優れた闘将」と評された神だが、1943(昭和18)年12月、海軍省教育局に戻される。その後は水上艦艇の「殴り込み」の成功体験が忘れられなかったのか、すでに航空兵力の前に無力であることが証明された戦艦を活用すべしと主張。犠牲ばかりが増大する作戦を、次々に立案していくのである。以下、その具体例。
・上官に自分を戦艦「山城(やましろ)」の艦長にするよう要望。それに乗ってサイパン島の米軍を撃破すると主張し、却下される。
・連合艦隊先任参謀として、フィリピン海上において空母機動部隊を囮として米艦隊を引き付け、その隙に水上部隊を敵上陸船団に突っ込ませるという「捷」号作戦を立案。結果は惨敗。
・沖縄に来寇した米軍に対する水上艦艇の特攻を主張。その結果、「大和」を旗艦とする第2艦隊は沖縄へ向かい、悲惨な結末を迎える。
終戦時、神は第10航空艦隊参謀長の任にあった。隷下部隊との連絡のため北海道に出張した帰途、乗機が青森県三沢沖で不時着水。同乗者と岸に向けて泳ぎだしたものの、途中でその姿は消えた。事故とも自殺とも判然としない、謎の死であった。
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大木氏は、ある意味で日本軍人の典型のような神の戦歴には、日本軍の教育が大きく関わっていると分析し、次のように述べている。
「よく知られているように、海軍兵学校・海軍大学校や陸軍士官学校・陸軍大学校の教育は、作戦・戦術次元の知識を偏重し、敢えていうならステレオタイプの解答を叩き込んだ。そうして形成された日本軍の指揮官は、戦闘の「公式」が通用する範囲、すなわち艦長や連隊長・大隊長レベルでは有能たり得た。しかし、より創造性と柔軟な思考を必要とする戦略・戦争指導の責任を負うや、愚行に向かうということがしばしばあったのだ。むろん、彼らの個人的な資質の問題もあっただろう。けれども、かかる日本軍のコマンド・カルチャーも深刻な影響をおよぼしていたのではないだろうか」
戦史の表層には現れることのない参戦各国の「教育」が、戦いの帰趨を左右したという大木氏の指摘は、現代においても大きな意味を持つのではないか。
※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)に基づいて作成したものです。