バブル末期、利潤の追求より「倫理の大切さ」を訴えた東大総長の深いスピーチ

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 1990年代初め、当時の日経平均最高値更新、売り手市場のバブル景気の浮かれる空気に対して、危機感を持った学者がいた。東京大学総長、有馬朗人(物理学)――彼は社会に対する警告ともとれる言葉で、学生たちに語りかけた。

 世の中がまだバブルの夢から醒めない中、学生たちが利潤を追求する資本主義に飲まれ、学びの本質を忘れないために語りかけた熱いメッセージは一体どのようなものだったのか。石井洋二郎・東大名誉教授の著書『東京大学の式辞 歴代総長の贈る言葉』から、石井氏の解説と共に、有馬総長の式辞の一部を見てみよう。(以下、引用は同書より。有馬総長の式辞は〈 〉内。他は石井氏の解説)。

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東大生にぜひ学んでほしい二つの項目

 1990年(平成2年)の入学式式辞で有馬総長は、新入生に東京大学でぜひ学んでほしいと思うこととして、倫理性と論理性という二つの項目を挙げられています。まず前者について――。
 
〈最近の地価高騰や様々の政治社会情勢に於て、利潤のみを追求する傾向が日本の社会に強いことを私は苦々しく思っています。人間は決してパンのみによって生きるものではありません。倫理などと言うと青くさいそして古くさい議論だと思う人々が多いでしょうが、現代はまさにそういう時代だからこそ、私はあえて諸君に倫理性を身につけて欲しいと言っているのです。清新な感性と柔軟な思考力を持つ諸君は、人生の意義や理想そして生き方について真剣に考えることができるはずです。そのような諸君ですから、倫理こそは、あらゆるものを獲得したときでも、あらゆるものを失ったときでも確然と存在する人生の尺度であり、高い倫理性を伴う人生を送ることこそ人間の最大の目的であることを理解できるはずです。〉

 1980年代の末期、日本経済は前例を見ない好況に沸いていました。俗に言う「バブル景気」です。この式辞が述べられたのはまさにその真っただ中でしたから、総長の口から「最近の地価高騰」とか「利潤のみを追求する傾向」といった言葉が出てくることには、それなりの必然性があったわけです。

 確かにこの時期の日本は、一種の狂躁状態にありました。銀座のクラブやバーには毎晩のように社用族が訪れて高級なシャンペンを開け、道路には送迎用のリムジンやら外車やらが所せましと並んでいる。六本木のディスコには若者たちが繰り出して、明け方まで踊り明かす。あいにく私自身にはまったく無縁の世界でしたが、テレビにはそうした風景が日常的に映し出されていました。
 
 当然ながら就職に関しても完全な売り手市場で、特に都市部の有名大学の学生は格別に努力しなくても容易に一流企業に職を得ることができましたから、学生たちのメンタリティに鼻持ちならない驕りが生まれないほうが不思議なくらいです。そうした時代背景を踏まえてみると、「青くさいそして古くさい議論」であることをじゅうぶん承知しながらも、いかなる状況にあっても変わらぬ尺度である倫理観の重要性を訴え、あえて「高い倫理性を伴う人生を送る」ことを新入生に求めたくなる気持ちはよく理解できます。

日本の教育に不足している「明晰かつ判明な論理」

 いっぽう、有馬総長はヨーロッパで1992年の市場統一を目指す動きが加速していること、またアジアでも各国間の相互依存性が高まっていることに触れた上で、こうした多極化の時代には「情緒的な対処の仕方では日本は、先進諸国に伍して行くことは出来ません。今こそ、論理的、理性的に判断をする必要があります。この論理的な思考法こそ大学で学ぶべきことです」と述べています。
 
〈日本の教育において論理学と修辞学の訓練が不充分であることは、よく知られているところです。我々には寡黙を美徳とする習慣があり、又他人と直接意見を戦わさないようにむしろ努力をします。以心伝心という禅の言葉があります。真理は言葉では表せず、心で伝えるものであると言うのですが、この考え方は、我々の日常生活にも影響を与え、問答において「はい、いいえ」を曖昧にする傾向があります。このことは、狭い国土に大勢の人が住んでいる日本人が生み出した生活の知恵であったとも言えます。このような日本人の性格もあって、論理学と修辞学が重要視されなかったのかと、私は考えています。〉
 
 論理学と修辞学は、文法学とともに中世ヨーロッパにおける「三学」をなす重要な要素で、これに幾何学、算術、天文学、音楽の「四科」を加えた「自由七科」artes liberales(アルテス・リベラレス)が、今日の「リベラルアーツ」の源流とされています。これらは西欧では自立した教養人が身につけるべき必須の学芸とされていましたが、そうした伝統をもたない日本では、自分の考えをはっきり言葉にして論理的に伝える習慣がなく、なんとなく曖昧なままで相互了解が成り立つことが多いというのは、確かにあちこちでよく言われる話です。

 これが客観的な事実と言えるかどうかはさておき、有馬総長は上の引用に続けて、国際化が進む今の時代に「日本人が論理をあいまいにし修辞を忘れて、自分達の主張を通そうとしても、他の国の人々にはなかなか理解してもらえない」ので、「明晰かつ判明な論理」を展開しなければならないと述べています。
 
「明晰かつ判明」というのはデカルトの『方法序説』に見られる有名な表現で、「明晰」とは精神にとって疑う余地なく明白に認識されていること、「判明」とは明晰であると同時に他からはっきり区別されていることを指しますが、多くは「明晰判明」とセットで用いられ、「明確で紛れようがない」といった意味で用いられます。

 さらに有馬総長は、芸術創造におけるデオニュソス的情熱の重要性はじゅうぶん認めながらも、学問においては論理的な態度を重んじるアポロン的理性が不可欠であると説いていますが、これはニーチェが『悲劇の誕生』で提示した二項対立の図式を踏まえたものです。有馬朗人は俳人としても著名でしたが、その式辞にはこのように西欧思想への暗黙の参照が随所にちりばめられていて、教養の幅広さと深さを垣間見ることができます。

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