記者が見たプロレスラー・曙 大仁田厚との電流爆破デスマッチで負った火傷の痕を隠し続けたワケ

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「プロレスは自分が選んだ道」

 プロレス・デビューして7カ月後の2005年10月、NOAHの三沢光晴とタッグ対決し、「プロレス界の横綱に触れました」と喜んでいた曙が、本当にプロレスの凄さを知ったのは翌年1月、NOAHで力皇猛と組み、小橋建太、泉田純至と戦った時だったという。同じコーナーの、サードロープに曙が、セカンドロープに力皇が立ち、重なる形でダイビング・ボディプレスを泉田に炸裂させ、フォール勝ちした。瞬間、曙は目を疑ったという。

「泉田選手が、自分の足で立ち上がって、帰って行った。僕と力皇選手で、合わせて350kg以上ですよ。力士なら絶対に怪我をしている。試合前、『失神まではしょうがないけど、死ななきゃいいな』と心配していたくらいなんです。その時、『大変な世界に来てしまったんだな』と思ったんですね」

「G1 CLIMAX」参戦中、リングで練習していると、スキンヘッドの人物が近づいて来て、言われた。「ずっと観てたけど、あなた、本当によく練習するね。あなたならウチの道場、いつ使ってくれてもいいよ。私からも言っておくから」。“鬼軍曹”として知られた、山本小鉄だった。

 練習はもちろん、攻めも受けも全力投球だった。諏訪魔にフロント・スープレックスで投げられ、関本大介にジャーマン・スープレックスで固められた。トップコーナーからダイビング・ボディプレスを見舞い、何度かわされても封印はしなかった。白眉は、2012年より始まる、大仁田厚との電流爆破マッチでの抗争だろう。何度も正面から被爆する姿は、今回の訃報にあたり大仁田も絶賛していた。これが2013年8月31日に一旦終了すると、翌月は、全日本プロレスの「王道トーナメント」を勝ち抜き、優勝する。試合後、コメントルームでワンショルダータイツの上半身を開けると、報道陣は声を失った。腹に穴が何か所も空いたような傷があったのだ。電流爆破の火傷の痕だった。

「(プロレスは)自分が選んだ道ですから。負けた時の言い訳もしたくなかったから」と、火傷を隠し通していたのだった。

 2000年代の初頭、新興のスポーツ雑誌で、こちらも元横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さんの取材に立ち会ったことがある。プロレスと相撲の共通点を、「どちらも、自分の型を持ってる人は強いね」という輪島さんは、プロレスラー時代の思い残しとして 、「1度はベルトを巻いてみたかったね」と語っていた。

 対して、相撲とプロレスの違いについて、曙は次のように答えている。

〈ない! どっちも同じ。変わらない。僕らが相撲で最初に教わったのは『お客さんが明日も見たいと思う相撲を取れ』ということ。勝ち負けより、もっと大きいものがあると、その頃から教えられていました。(中略)お客さんが喜ぶような相撲をとって、勝って、初めて人気が出る。プロレスも、いかにお客さんを満足させるかの勝負〉(「実話ナックルズ」2015年4月号)

 王道トーナメント優勝の翌月、曙は全日本プロレスの至宝、三冠統一ヘビー級王座を初奪取。それは、東富士、輪島、北尾らが果たせなかった、横綱出身レスラーとして、初のシングル王座獲得だった。試合後、曙は語った。

「横綱の時も、どういう横綱になればいいか悩んでたけど、よく見たら、横綱が他に近くにいるわけじゃない、自分の持ってるものが良かったから横綱になれたのかなって。だから、(三冠王者になれたのも)、自分にも良い部分があったのかも知れません。それをこれからも磨いていきたい」

 いつしか、全日本プロレスの巡業バスでは、亡くなったジャイアント馬場さんが座っていた大型の席に、曙が座るのが許されるようになっていた。2015年には馬場さんの妻、元子さんの肝煎りにより、新団体「王道」を立ち上げていた。2017年以降は急性心不全や右足蜂窩炎をはじめとする感染症などで長期欠場となったが、リングでの激闘の記憶は決して消えない。

 曙さん、あなたは本当に素晴らしいプロレスラーでした。胸躍る数々の思い出をありがとう。合掌。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。シナリオライターとして、故・田村孟氏に師事。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)など。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。

デイリー新潮編集部

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