元中日投手からイチゴ農家に転身した男の告白 高校・大学は全くの無名、独立リーグ時代に訪れた転機“考え抜いたプロの需要”

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前代未聞の「代打・三ツ間」騒動を振り返る

 支配下1年目の2017年には35試合に登板した。森繁和監督もまた、使い勝手のいい三ツ間の技術と度胸を買っていた。早くも4月12日には救援登板で2回を無失点に切り抜け、味方が逆転したことでプロ初勝利も挙げた。順風満帆なスタートを切った。

「……いや、決して順風満帆ではないですね。開幕当初はファームでやっていたことが通用したんだけど、すぐに研究されて右バッターのインコースを見逃されるようになって、そこから手詰まりになることが多くなりました。するとカウント負けして、ボール先行になって、勝負にいった甘いボールを打たれてしまう。なかなか厳しかったです」

 打開策を見出せないまま、翌18年はわずか4試合の登板に終わった。決して、コンディションが悪かったわけではない。本人によれば「理想と現実の差を感じて焦ってしまった」からだった。それでも、三ツ間は復活する。

「19年には左バッターのインコース対策としてカットボールを投げるようになり、これがうまくハマってくれました。その結果、与田剛監督に認められて一軍で投げる機会が増えました。右バッターにはシュート、左バッターにはカット。僕の場合はバッターのインコースをいかに攻め切れるかが生命線でしたから」

 しかし、その後は故障に見舞われ続けた。20年には4試合、21年には5試合の登板に終わる。この間、投手としての出番は少なかったが、20年には「打者」として注目を浴びたこともある。ファンの中では「代打・三ツ間」として話題となった一件だ。7月7日の東京ヤクルトスワローズ戦で延長戦に突入し、控え野手を使い果たしていたドラゴンズベンチは投手・岡田俊哉の代打として三ツ間を起用したのだ。

「あのとき、ベンチには3人の投手が残っていたんですけど、僕がちょっとバッティングがいいということで選ばれました。相手投手はスワローズの石山(泰稚)さん。長年、抑えを任されてきた投手の生きたボールを見られるわけだから、“最高じゃん”って思ったし、“絶対に打ってやろう”と思ったけど、顔の前で振ったつもりが、ボールはすでに顔の後ろにあったし、ワンバウンドかと思ったら、そこからグーッと伸びてストライクになったし、まったく当たる気がしませんでした(笑)」

 独立リーグから育成枠でプロ入りし、支配下登録を勝ち取って一軍で77試合に登板した。しかし、無情にも21年オフに戦力外通告を受けた。自分では「まだまだ投げられる」と思っていた。だから、迷わずトライアウト受験を決めたものの、どこからも誘いはなかった。

「トライアウト後、韓国や台湾球界、日本の独立リーグからお誘いはあったんですけど、自分としては“NPBにこだわる”と決めていました。NPBから誘いがない以上、野球は終わりです。キッパリと次の道に進むことを決めました」

 潔くユニフォームを脱いだ三ツ間が第二の人生に選んだのは、誰もが驚いたイチゴ農家への転身だった。親戚縁者に農業従事者がいるわけでもなく、自身も経験があったわけでもない。全くの素人がいきなりイチゴ農家を目指すことを決めたのだ。そこには一体、どんな理由があったのか。                   

(文中敬称略・後編【コロナ禍がきっかけで、神奈川県で300坪のイチゴ農園を開業、シンガポール・ドバイへ輸出する計画も…元中日投手(31)が明かす第二の人生】に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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