【袴田事件再審】検察側証人・九大名誉教授が“仰天発言” 巖さんの姉は「苦し紛れに聞こえました」

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法医学の大権威の過ち

 警察や検察、裁判所から鑑定を依頼される法医学者にとって、捜査機関は大切な「お客さん」とも言える。法医学者の人数は少なく、限られた大学にしか講座がない。そんな狭い「法医学ムラ」の人である清水教授や奥田助教にとって、捜査側ではなく弁護側の鑑定人となることは勇気のいることなのだ。

 法医学の話ついでに、過去、多くの重大な冤罪を生み出した有名な科学者を紹介する。法医学者として日本で最も知られた人物といえる東京大学名誉教授の古畑種基氏(1891~1975)である。

 1949年8月、青森県弘前市で弘前医科大学教授の妻が寄宿舎で刺殺された。当時の弘前市警は近隣住民の無職・那須隆さんを逮捕し、那須さんは殺人罪で起訴された。衣服の血痕が被害女性と一致したとされていたが、弁護側は「捏造」と反論した。1951年に一審の青森地裁は無罪判決を下す。

 検察は控訴し、仙台高裁は衣服の再鑑定を古畑氏に依頼する。「血液学の世界的権威」とされていた古畑氏は、被害者の血液と血痕が「98・5パーセントの確率で一致する」とした鑑定書を出した。仙台高裁は1952年、逆転有罪として那須さんに懲役15年を言い渡した。血液型が雌雄を決めたモデルケースとされた。

 ところが、事件から20年以上経過した1971年になって、那須さんの知人の男が「殺したのは私です」と名乗り出る。再捜査の結果、真犯人と判明。当然、那須さんはすぐに再審を申し立てた。

 古畑氏の鑑定が信用のできないものであったことが明白となるが、仙台高裁の刑事一部は1974年に那須さんの再審請求を棄却してしまう。ところが、同じ仙台高裁の刑事二部は、1976年に刑事一部の棄却決定を取り消して再審開始を決定した。再審が実現し、1977年2月に那須さんは無罪を勝ち取ったのである。この時のニュースは筆者もよく覚えている。

 実は古畑氏は、再審開始決定が出される前の1975年に84歳で亡くなっている。想像だが、刑事一部は「世界的権威」に忖度し、亡くなった後に刑事二部が再審へ持っていったのかもしれない。那須さんにとってはたまったものではない。

 古畑氏は1891年生まれ。東京帝国大学医学部を卒業、欧州に留学をし、帰国後は金沢医科大学の法医学教授となる。若干32歳だった。1936年には45歳で東京帝国大学の教授となった。血液のABO型の判定方法などを確立し、1947年には学士院士院会員、1956年には文化勲章を受章した。「最高権威」の名をほしいままにし、世間から尊敬されていた。

 古畑氏の生んだ重大な冤罪はこの事件にとどまらない。

 1980年代に再審無罪が相次いだ「四大死刑冤罪事件」でも古畑氏は、免田事件(熊本県)を除く財田川事件(香川県)、松山事件(宮城県)、今年1月に冤罪被害者だった赤堀政夫さんが92歳で亡くなった島田事件(静岡県)の3つで鑑定を行い、無実の刑事被告人を死刑台の淵まで送ったのである。

 このほか冤罪が判明した二俣事件(静岡県)などでも、警察・検察側の主張に沿う鑑定を行っている。明治時代に欧州留学などすれば、それだけで大権威だ。そんな男がこれだけの間違いを犯し無辜の民を苦しめてきた。古畑氏が意図的に捜査側のストーリーに沿う鑑定をしていたのかは不明だが、本人は再審無罪を知ることなく他界している。しかし、冤罪が明らかになり、岩波書店は1977年9月に古畑氏が監修した「法医学の話」を絶版にしている。

 鑑定は科学的な評価であり、事件や事故では証言以上に信用度は高い。それを担う法医学者たちが当局におもねる「御用学者」であれば、こんな恐ろしいことはない。

 そして重要な事件の鑑定が同じ人ばかりに集中するのは日本の官僚たちに脈々と巣くう「権威主義」だろうが、逆に言えば「あの大権威が間違えたなら仕方がない」の内向き発想でもある。それで一生を台無しにする人がいることなど念頭にない。

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