子どもに「耳が痛いこと」を言う人がいなくなった時代に親がすべきこと 現役スクールカウンセラーが警鐘

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粘り強い関わりから伝わるメッセージ

 この事例を読んで気づいた人もいると思いますが、この男子生徒はこころのどこかで「悪いところもわかってほしい」と思っていたのではないかと見立てられます。本当に悪いテストを隠すつもりであれば、自室とはいえわざわざ家のゴミ箱に捨てることはしないでしょう。見つかるリスクが高まりますからね。

 ですから、この事例のスクールカウンセラー(私です)は、きちんと「悪いところがあるあなたとも関わりたい」というメッセージを伝えるよう助言しましたし、その後の展開を見るとうまくいっているように見えます。

 文章では書ききれませんが、この事例でも、子どもが「うん、わかった! 次からは見せるね」とすんなり納得したわけではありません。「えー」「でもー」「知らない!」など誤魔化したり、そっぽ向かれたりされて親としては大変な思いをしつつも粘り強く関わっていきました。そして、そういう「ごちゃごちゃとしたやり取りを根気よく続ける」ことを通して、「問題のあるあなたであっても、関わり続ける意思がある」ことを示し続け、その積み重ねが子どものこころの支えになっていったと思われます。

 また、親子間が不穏な雰囲気になっていたとしても、親は子どもの世話を何だかんだ言いながらもやるものです。ご飯は用意するし、お風呂の世話をするし、朝は起こすし。そうやって、「子どもの問題」に触れて不穏な雰囲気になったとしても、日常的な世話をそれなりに積み重ねていくことで、子どものこころに「問題がある自分であっても捨てられない」「親は良いも悪いも含めて、自分を見てくれている」という思いが少しずつ積み重なり、染み込んでいくのです。

「向き合う体験」が不足しつつある現代

 このように「問題と向き合う体験」と「支えられる体験」の両方が積み重なっていくことで、ようやく「問題のある自分でも大丈夫」という実感が得られ、それを支えに子どもはようやく自分の「問題」を受け容れていくことが可能になるのです。子ども単独だと問題と向き合う「こころの衝撃」に耐えられないけど、親に支えられながらであれば、二人三脚で問題と向き合いつつ受け容れていくことができるというわけです。

「そんな七面倒くさいことしなくても、勝手に子どもは成長するよ」と思っている人もいるかもしれません。それは半分正しくて、半分間違っています。

 確かに昔はここまで親が「問題と向き合う体験」に付き合う必要はありませんでした。親が言わなくても、悪いことをすれば祖父母が叱ってくれたり、近所のおじさん(ドラえもんに登場するカミナリさんみたいな人)が銭湯で「こら、水を出しっぱなしにしない!」と注意をしてくれたり、学校では子どもの誤魔化しや狡さを見逃さない先生がいました。

 つまり、「問題と向き合う」という行為を、地域社会が担ってくれており、親は傷ついた子どもを「それは大変だったね」「そりゃ仕方ないけど、嫌な気持ちになったね」などと支えることが大切だったのです。親と地域社会が協働して、子どもが「問題と向き合う体験」と「支えられる体験」の両立ができていたということですね。

 ですが、時代は変わりました。核家族化が進んで子どもの周りにいる身近な大人は減り、相対的に子どもに「耳が痛いこと」を言う人はいなくなりました。また、学校を含めた地域社会が子どもの「現実」を指摘したり、注意したり、諭したり、叱ったりしてくれることは格段に減りました。下手に子どもの「現実」に関わろうものなら、それこそクレームという形で反発を受けることもたびたびです。子どもの不快に過敏な時代になったということでしょうね。

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