【光る君へ】紫式部との恋愛どころではなかった…藤原道長が執念を燃やした二人の源氏との縁談

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藤原氏には絶対にかなわない源氏の血筋

 歴史学者の倉本和宏氏は、「兼家の五男で左京大夫に過ぎなかった道長が、何故に左大臣源雅信の女である倫子の婿になることができたのかはわからない。天皇(この年、八歳)も東宮(この年、十二歳)も、倫子と結婚するには若すぎたことも原因であろう」と記す(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。 この説明に、上述した疑問を解くカギがある。

 それにはまず、源氏について理解しておく必要がある。「臣籍降下」という言葉がある。皇族が身分を離れ、臣下の籍に入ることで、そのときに賜る姓のひとつが「源」だった。こうした姓にはほかに「在原」や「平」などもあったが、なかでも「源」は天皇の子や孫にあたえられることが多く、ほかの姓よりも血統が天皇に近かった。

 わかりやすい例が『源氏物語』の主人公の光源氏で、彼は天皇の子として描かれている。そして源雅信も、宇多天皇の息子で醍醐天皇の同母弟だった敦実親王の子で、天皇の孫にあたった。片や、藤原氏は最初から臣下であって、天皇家から分かれた血族ではない。このように「源」と「藤原」では最初から血統がまったく違う。源雅信もそう考えていたから、いまをときめく摂政の子であろうとも、自分の娘の婿になんて「問題にならない」といったのだと考えられる。

 要するに、雅信は倫子を、血筋にふさわしく后候補として育てたのだが、現実には倉本氏が述べるように、時の天皇も東宮も、すでに24歳になっていた倫子の相手としては若すぎた。結果として、嫁ぎ先がないので、母の穆子の勧めもあって、22歳の道長が分不相応ながら、天皇のひ孫に婿入りすることができたというわけだ。

 こうして、ドラマで詮子が表現した「高貴な血」と結ばれたことで、結婚翌月の永延2年(988)正月には、それまで辛うじて公卿の末席にいたにすぎない道長は、6人抜きで権中納言に抜擢されている。山本淳子氏は「政界トップの摂政(註・兼家のこと)の息子が源氏の重鎮である左大臣の婿になるとは、こういうことなのだ」と記す(『道長ものがたり』朝日選書)。

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