横尾忠則のアトリエは「記憶の倉庫」 創作の霊感の源泉に
アトリエについて何かいかがですか? と編集者からの要請がありました。このアトリエが出来たのは画家に転向して2年目位かな。それまでは絵を描く場所がなくて近所のお屋敷の一室を借りたり、美術館のロビーや、テレビ局の物置場だったり、ボクシングジムの一角を借りたり、また公開制作という名目で美術館のイベントに組み込まれたりしながら、まるで放浪の画家のように、描く場所を求めて彷徨(ほうこう)している時期がありました。
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今もそうですが、僕の絵の主題や様式が固定しないのも、多分、居が定まらず、声が掛かればどこへでも出掛けていたあの時代と大いに関係があるのではと思います。環境が変ればその環境に対応したテーマやスタイルの絵が自然に生まれてしまうのです。別に多様なスタイルの絵を描こうとしているのではなく、内心は一定の定まった絵を描きたいのですが、固定したアトリエがないために、常に居場所が流動するために、絵まで流動して、絵のスタイルが次々と多様化し、それがいつの間にか僕の絵のスタイルになってしまったように思います。色んな種類の絵を描こうとするコンセプトに従がっていると思われるかも知れませんが、気がついたら昨日と今日とでは別のスタイルの絵が描けてしまっています。
現在は滅多に公開制作はしませんが、公開制作でも毎回異なったタイプの絵が描けてしまうのです。このことには2つの理由があります。ひとつは公開制作で制作場所が毎回変化していたためと、もうひとつは僕の性格によるものです。子供の頃から気が多く、何をやってもすぐ飽きるために、次々と行動の変化に多様性がついて廻ります。自分の観念や思想で作品が変化するのではなく、全てその時々の身体性が作品を決定するのです。
さて、アトリエの話に戻りましょう。このアトリエを設計してくれたのは世界的な建築家の磯崎新さんです。その頃、僕の郷里に美術館を作りたいという市の意向があった時、僕は磯崎さんを推薦しました。当初は僕の美術館をという発想で開館されたのですが、後年、神戸に横尾忠則現代美術館が創設されたので、現在は郷里の美術館は一般に開放されて新旧の作家の発表の場になっています。この郷里の美術館が完成すると同時に磯崎さんにアトリエも設計してもらうことになりました。絵の描ける大きい箱のようなアトリエをとお願いして、成城の高台から富士山が遠望できる場所にこのアトリエは存在しています。このアトリエが出来る頃、遠くに火事がよくあったので、アトリエのバルコニーを二層にして、上階を火の見やぐらに設計してもらいました。すると富士山も火事もよく見えるようになりましたが、なぜか火の見やぐらを作ってからというもの、今まで一度も火事がないのです。このアトリエの火の見やぐらがどうやら火事を封印してしまったようです。
バルコニーの欄干などを黄色に彩色してうんと明るく見えるようにしました。ある風水研究家は南向きの場所を黄色にすることで、幸運が舞い込むと言ってくれましたが、それを聞く前に無意識で黄色にしたのです。また自宅の門の柵も黄色です。こちらも偶然、南向きでした。このように直感で決めたものが、そのまま自然の法則や原理に適っているようです。僕は画家ですが、あんまりあれこれ考えるのが得意でないので、いつも思いつきとか、直感で物事を判断したり決定します。
アトリエができた頃はガランとしていて、複数の絵を同時進行で描けましたが、現在は壁のスペースもなく絵を描く場所はたった一面だけになってしまいました。最初は空っぽの空間だったのが、今ではまるで倉庫のように物がビッシリ積まれて床も物が並んでいて身の置き場所もないアトリエになってしまいました。
アトリエは地下と地上一階の二層からできています。最初は地下を版画工房にする予定だったのが、今では天井まで資料や本(画集)がギシギシに詰まっています。昔からコレクション癖があるので、物がどんどん増える一方です。断捨離とは全く反対の生き方をしています。僕はありとあらゆる事物からインスピレーションを受けますので、過去の厖大(ぼうだい)な資料は僕の中では全て宝物の図書館になっています。何がどこにあるのかは全て、頭の中にコラージュのように記憶されているので、捨てるわけにはいかないのです。僕が死んだら全て不必要なただの物になりますので、その時は捨てられても結構です。
僕にとっての創造の原点は記憶です。肉体を通して体験した行動や事物、それらは全て創作の霊感の源泉です。だから今や、アトリエというよりも、記憶の倉庫といった機能のものになっていて、磯崎さんが見たら驚くんじゃないでしょうか。「倉庫を建ててくれと頼まれた憶えはないよ」と今頃、向こうから言っているように思います。