【由利徹の生き方】「チンチロリンのカックン」「オシャ、マンべ」の説明不能なギャグ…他の喜劇人とは明らかに違った晩年とは

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根底にある戦争体験

 酒も好きだった由利。芸人仲間の話によると絡み酒が多かったそうであるが、弟子のたこ八郎(1940~1985)には優しかった。

 70歳を過ぎてからは夜の遊びにも出かけることがめっきり減った。仕事が終わるとまっすぐに家に帰ってくるのである。遊んでいたときは、あれほどキラキラ輝いていた由利。「男の人も色気が抜けるとかわいそうだな」と妻は思ったに違いない。

 それにしても、一見、不真面目に見える由利の姿勢は、どのようにして生まれたのだろうか。それを紐解く鍵は、93年4月、春の叙勲で勲四等瑞宝章を受章したときの会見の記事(朝日新聞朝刊社会面・同月29日)を読むとよく分かる。少し長いが、そのまま紹介する。

《うれしさと悲しさが、いつも心の中で共存している。「勲章なんかもらって、おれの本質から外れちゃうようになったら困るな」と真顔でいう。生涯、道化だからだ。

 故八波むと志、南利明と組んで、昭和三十年代にテレビで人気を博した脱線トリオ時代のことだ。東京の日劇で結成五周年の公演をした。幕が下りても拍手がやまず、舞台に引き戻されると、そでで弟子が小指を立てて目配せをする。カーテンコールが終わって、上機嫌で弟子に聞いた。「彼女から電話あったの?」「違います。師匠のオフクロさんが亡くなりました」

 故郷は宮城県石巻市だ。公演中で帰れない。劇場を飛び出し、流しのタクシーを拾って、明治神宮の周りをグルグル回ってもらった。泣くためだった。

 大工の家に生まれ、十八歳で、新宿にあった軽演劇場のムーランルージュに入った。そのころは、歌手を志していた。歌謡学校にも半年通ったが、なまりがひどくて役者になった。「喜劇はむずかしいよ。明日、今日と同じことをやっても笑ってくれない」

 去年、日本喜劇人協会の七代目の会長になった。初代は、「エノケン先生」と慕う故榎本健一である。》

 この記事では触れていなかったが、由利の人生観の原点に戦争体験があったことも忘れてはいけない。動員された中国戦線。将校は馬に乗ることができたが、兵隊はひたすら歩くしかない。

 一緒に行軍していた仲間がインキンに罹った。歩くごとに股がこすれて痛い。泣いてしまうほどの痛さだった。なので、ズボンだけ脱ぐことを許された。どこからかメリケン粉を調達した由利は、患部にふりかけたのだそうである。全員が重装備の軍装の中で、ひとりだけ下半身丸出しの男。でも、周囲は全く笑うことはできなかった。人間に対する醒めた目、苦しさやむなしさへの諦念。そんなものを由利は戦争体験で学んだのだろう。

 さて、ここまで書きながら、やはり由利といえばテレビや舞台で繰り返して演じた、十八番(おはこ)のコント「ババアの裁縫」を挙げないわけにはいかない。コントの結末は、髪の油をつけようとして手が滑って針で自分の肌まで突いてしまうというたわいのないものだったが、由利の告別式の弔辞でこのエピソードを紹介したのが、先にも書いた演出家の久世光彦だった。久世は「一匹の赤鬼が、目をらんらんと光らせてババアの裁縫を演じている。笑いをアナーキーなまでに高めた鬼の生涯を心から尊敬する。その芸を見て笑って、涙が出るまで笑った私たちは幸せでした」と述べた。

 芸の鬼だった由利。あの激しかった戦争を生き残ったからこそ、戦後エネルギッシュに動き回ったのだろう。

 次回は、胸のすくような豪快な女剣劇で大衆を沸かせた浅香光代(1928~2020)。負けず嫌いで意地っ張り。細かな気遣いを見せる「情の人」の素顔に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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