【由利徹の生き方】「チンチロリンのカックン」「オシャ、マンべ」の説明不能なギャグ…他の喜劇人とは明らかに違った晩年とは
ボクサーを目指して上京
経歴を簡単に紹介する――。数々のお笑い番組を仕掛けたテレビプロデューサー・澤田隆治(1933~2021)が著した「決定版 私説コメディアン史」(ちくま文庫)によると、1921(大正10)年、宮城県石巻市生まれ。プロボクサーのピストン堀口(1914~1950)に憧れ、上京。拳闘クラブに入門してボクシングの練習に励んだが結局ものにならず、1942(昭和17)年、なぜか軽演劇場「ムーランルージュ新宿座」に入った。翌年には陸軍通信隊に入隊し、中国戦線に赴く。戦後、新宿ムーランが縁で芸能界に入り、やがて八波むと志(1926~1964)、南利明(1924~1995)とともに「脱線トリオ」を結成。テレビ出演を機に爆発的な人気を得た。
由利が貫いたのは懐古的な笑いではなく、瞬間、瞬間に状況を織り込んだ新しい芸だった。身体的柔軟さをフルに生かしたスピード感あふれる芝居もあった。喜劇役者にとって運動神経に恵まれることは不可欠の条件だったが、由利は凄まじいまでの瞬間芸を発揮した。ここぞというときにはハチャメチャな動きをしてみせたのである。
さて、ここからはあくまでも私の持論だが、日本の喜劇人は、晩年になり、功成り名を遂げると、いわゆる「渋い役者」になってしまい、喜劇から一線を引いてしまう傾向がある。そんな中、由利は人を小馬鹿にしたようなドタバタな道化芝居をやめなかった。いまの時代だったら炎上してしまいそうな下ネタもやめなかった。そこが何よりも偉い! それでいて、前述したようにどこかペーソスを感じさせる男でもあった。
テレビドラマ「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」(いずれもTBS)などで由利と共演した女優の樹木希林(1943~2018)は、由利が場末のストリップ小屋の客を舞台で演じたときのことをよく覚えていた。
「かぶりつきで身を乗り出し、ストリッパーに見せろというときの顔の真剣さ、男の性(さが)、切実さを感じた」
と樹木。人間とは猥雑な存在であると由利は確信していたに違いない。実際、家庭は大切にしていたが、女性との浮名は多かった。いわゆる女好き、女道楽である。何日も家を留守にするが、オドオドしながら帰ってくる。
「最初は裏切られたと、心が寒くなりました。でも、もうこれでいいと思ったんですよ。しつこく問いつめるのは私の性格ではない。言って止まるなら言いますが、とまりそうになかった」
と元松竹歌劇団で男役として活躍した妻は振り返っている。由利は「おかえりなさい」と何げなく言う妻の顔がすごく怖かったそうである。
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