世耕弘成議員に離党勧告処分 元国会議員の祖父は東条英機に反旗を翻し、孫と真逆のことをやっていた
近畿大学と日銀ダイヤ
弘一氏は「選挙で他人の世話になったことはない」と力説し、その証拠として「8回立候補して4回落選した」ことを挙げた。これには特別委員会の国会議員も圧倒されたようで、金銭の授受はなかったと「了承いたしまする」と発言した議員もいた。
「完全にシロだと証明されたとは言えないにせよ、『クロではない』と認定されたことになりました。結局、弘一氏に捜査の手が及ぶことはありませんでした。その後も衆議院議員として活動を続け、第2次岸内閣では1959(昭和34)年1月から経済企画庁長官を務めました」(同・記者)
弘一氏は近畿大学の発足にも深く関わった。1925(大正14)年に日本大学が大阪府に専門学校を設置し、1940(昭和15)年に経営分離。その後、1943(昭和18)年から学内で内紛が発生したため、弘一氏が学長などの任に就き、騒動を収束させた。そして戦後、弘一氏の元で新制の近畿大学として再スタートを切ったという歴史を持つ。
この近畿大学と「日銀ダイヤ」に思わぬ“接点”が生まれたことがある。弘一氏は1965(昭和40)年4月に死去するが、週刊新潮が5月17日号に「世耕氏と日銀ダイヤ─棺を覆うてなお賑やかな十六万カラットの周辺─」との記事を掲載したのだ。
祖父と孫の比較
「日銀ダイヤの取り戻しに尽力した情報提供者が、近畿大学の内紛問題で逮捕され、長時間の取り調べを受けた後に急死。しかも亡骸は遺族に戻される前に火葬されたという事実が明らかになったのです。当然ながら国会でも弘一氏と情報提供者はダイヤを巡って何かあったのではないかと問題視され、弘一氏が衆院法務委員会に出席するよう求められていたところ、何と弘一氏も急死してしまったのです。このミステリアスな経緯を週刊新潮が報じ、弘一氏を『波乱にとんだ生涯』と評しました」(同・記者)
死してなお「毀誉褒貶、相半ばする」政治家だったと言えるだろう。ただし、弘一氏が様々な圧力に立ち向かい、国民に正々堂々と潔白を主張する胆力の持ち主だったことは明らかだ。ならば孫のほうはどうなのか──。ベテランの政治記者が言う。
「興味深いことに東京地検特捜部の前身は『隠匿退蔵物資事件捜査部』なのです。弘一氏が設置に深く関わった隠退蔵物資等処理委員会の実働部隊という位置づけでした。祖父と関わりの深い歴史を持つ特捜部が、今回の裏金事件では孫の捜査を行ったわけです。歴史の皮肉と言えるのではないでしょうか。祖父は証人喚問の要請も応じ、自身の潔白を国会で主張しました。一方の孫は政倫審でも逃げの一手で、証人喚問は論外という姿勢のようです。比較すると、その差は大きいと言わざるを得ません」
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