「不適切にも」モヤモヤが残った最終回…意外な幕切れに、クドカンは視聴者に何と言うか
タイムパラドックス
1つ目は、劇中で何度も言及された「タイムパラドックス」である。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」同様、過去や未来を操作すると歴史が変わってしまい「タイムパラドックス」が起きてしまうからタイムトラベラーは過去や未来を絶対に変えてはならない。そうだとすると、市郎と純子はやはり95年に亡くなってしまうのか。その結末を知りたかった視聴者にとってはモヤモヤが残った最終回だった。
しかしながら、実際に視聴者はこのエンディングを見てどんな心境になっただろうか。不適切だった市郎は令和の社会ルールを学習し勤務先の中学に蔓延するセクハラ、パワハラを正そうとする。令和の世界を見た市郎と純子はそれぞれ変化を遂げ、不適切だった自己のふるまいを見つめ直して親子の絆を深めていく。そんな愛らしい市郎と純子の姿を見て「絶対に生きていてほしい」という願いがどんどん深まっていったのではないだろうか。クドカンの狙いはまさにここだろう。あえて父と娘の運命を明確にしないまま脚本を書き終えたのは、人間の存在そのものへの慈しみの感情を視聴者に抱いてもらいたかったからではないか。
とはいえ、父と娘の運命は“超”の付く力業で回収できていた。昭和に戻り喫茶「SCANDAL」でトイレをのぞいた市郎はタイムスリップを可能とする新たなホールを発見。その中から2054年からやって来たというタイムマシン開発者の井上(小野武彦)が顔をのぞかせ、「タイムトンネルを発見しました。バスと違って好きな時代に行けるんです」と興奮しながら市郎に伝えるのだった。
このシーンはクドカン脚本のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の最終回とよく似ている。アキとユイがトンネルの向こうに見える輝きに向かって駆けていくのだが、このトンネルが「不適切にもほどがある!」ではトイレの時空ホールに該当する。タイムトンネルを使って自由自在に時空を移動できる市郎と周囲の人々の希望の未来が示されたかっこうだ。純子の未来の夫となる犬島ゆずる(古田新太)が病院で「2024年、お父さんがタイムマシンで現れます」と繰り返し発言していた理由もこれで「腑に落ちる」というわけだ。
さて、2つ目はこのドラマを評価するうえで結構、重要な論点となる。最終回でのミュージカル演出では「寛容が肝要」というメッセージが繰り返されたが、イギリスの哲学者カール・ポパーは「寛容のパラドックス」という理論を45年に著書『開かれた社会とその敵』で定義している。寛容な社会や組織は、さまざまな人々やアイデアを受け入れ、異なる視点や文化を尊重することで、社会的な調和や進歩を促進するが、この寛容さが極端になると、その社会や組織は自らの価値観や安定性を守る手段を失う。つまり、「寛容な社会は不寛容に不寛容であること」が求められるというのだ。
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