「こんなすごい子がいるんだ」 松田聖子、16歳のデビューに立ちはだかった父の存在
今から44年前、1980年の4月1日は、松田聖子(62)のデビュー曲「裸足の季節」が発売された記念すべき日だ。
その聖子が中央大学法学部通信教育課程を卒業し、法学士の学位を取得したことが3月24日、明らかにされた。
速報羽生結弦との「105日離婚」から1年 元妻・末延麻裕子さんが胸中を告白 「大きな心を持って進んでいきたい」
「学び直し」がブームになっているとはいえ、多忙な芸能生活や私生活での苦難を越えての卒業には、称賛や感嘆の声が上がっている。資格や学歴といったプラス要素でいまさら箔をつける必要がないキャリアの持ち主だけに、その努力にはより脱帽の念を抱く人が多いのだろう。
彼女の半生を振り返ってみた場合、今回の卒業は、ある種の親孝行、あるいはリベンジと読むこともできるかもしれない。国家公務員である彼女の父親は娘が高校を卒業した後、進学することを強く望んでいた。そのため一時はデビューそのものが危ぶまれていたほどだったのである。
結局、彼女は強い反対を押し切ってデビューし、大成功を収めることになるわけだが、そこに至るまで、本人も家族もかなりの葛藤を抱えていたのは間違いない。
送られてきたオーディションテープからその才能を見いだした音楽プロデューサー、若松宗雄さんの著書『松田聖子の誕生』から、福岡の女子高生が全国デビューするまでのドラマを見てみよう(以下、同書をもとに再構成しました)
***
衝撃のオーディションテープ
全身全霊にショックを受けた。福岡県に住む16歳の歌声はどこまでも清々しく、のびのびとして力強かった。明るさとしなやかさと、ある種の知性を兼ね備えた唯一無二の響き。私は元来「直感」が鋭く自分の感覚を大切にして生きているが、そのときの衝撃は今も忘れられない。
目の前に、とあるオーディションのカセットテープが山積みにされていた。私はプロフィールや写真も見ないまま、各地区大会のテープを1本1本聴いていった。声の良し悪しは聴けばすぐにわかる。先入観を持たずに向き合いたかったと言えばそれまでだが、私は純粋な気持ちで各々の歌声に耳を傾けていた。かくしてその声はプラスチックケースの山の中で未だ眠っていた。いや、待っていたと言うほうが正しいかもしれない。あの日あの場所に彼女の歌声が存在することを、私は知っていた気がする。何者かに突き動かされるように無心でテープを次々に聴き、200曲近い曲数にもかかわらず、ずっと期待感のようなものを持ってその場にいた。あの感覚は何だったのだろう。
順番はほどなく訪れた。カセットテープを入れて再生ボタンを深く押し込んだ瞬間、どこまでも伸びゆく力強い歌声が小さなスピーカーから想定外の迫力で室内へと響き渡った。
そのとき、時空を二つに分けるように一本の線が引かれた気がする。言ってみれば、彼女の歌声が人々の心を動かし始める前の世界と、以後の世界だった。証として私は既にそのテープを何度も繰り返し聴き始めていた。歌声の衝撃を例えるなら、真夏のスコールの後に曇天が消え去り、どこまでも永遠に続く南太平洋の青空が眼前に広がったかのようだった。
「こんなすごい子がいるんだ!!」
声量もある。かわいさもある。存在感もある。聴いているだけで胸が高鳴り、どこか楽しい場所へと出かけてみたくなる。この日の出会いがなければ、私の人生も彼女の人生も、いまとは違うものになっていただろう。
いまでも私は自分がたいそうなことをしたとは微塵も思っていない。けれど、いつの日も音楽を愛し、いい楽曲を世の中に届けたいと願ってきた。音響メーカーが作った新進のレコード会社であるCBS・ソニーに入社したのち、日本の音楽界に新風を吹き込みたいと心に秘め、世の中の多くの若者が思うのと同じように、私も世界を変えてみたいと小さな夢を抱いていた。しいて言うなら、その願いを形にする機会に少なからず恵まれただけなのかもしれない。
「すごい声を見つけてしまった」
私は心の中でつぶやいた。
ミスセブンティーン・コンテスト
ミスセブンティーン・コンテストの九州大会が開催されたのは1978年の4月7日。私がプロデューサーとして勤務するCBS・ソニーと、集英社の雑誌『セブンティーン』が共同主催するコンテストで、全国からの応募総数は5万人以上。各地区大会ののちに決勝大会が東京で開催されていた。
しかし九州大会で優勝したその歌声の持ち主は、なぜか本選を辞退してしまったという。
福岡県久留米市在住の高校2年生、3月10日生まれで16歳になったばかりの蒲池法子(かまちのりこ)、のちの松田聖子だ。いったい彼女に何があったというのだろうか。
「この子すごくいいと思うんだけど、直接、私が連絡してみてもいいですか?」
各地区の音源を用意してくれたコンテスト事務局のスタッフに、テープを聴いた衝撃そのままに駆け寄ると、「いいですけど……」と予想に反して怪訝そうな返事が返ってきた。続けて、「でも多分ダメですよ。父親と学校が強硬に反対していて、かなり難しいみたいだから」と力のない声が。父親? 学校? まずは本人と話してみなければわからないじゃないか。営業時代から開拓者精神を持って、どんな局面でも常に突破口を見つけ出していた私は、「仕事に障壁はあって当然だろう」と特に疑問も抱かずその話を聞いていた。
何より、こんな才能を埋もれさせるわけにはいかない。私はスタッフに礼を言ってカセットテープを借りると、名前と電話番号をメモして、すぐさま彼女に連絡を取るためオフィスに向かっていた。
おかしな話だが、この時点で私は歌声の主の顔をきちんと確認した記憶がない。スタッフが去り際に「かわいい子ですけどね」と小さく言っていたのは覚えているのだが、とにかく早くその歌を直接聴いてみたいという気持ちが勝っていた。私は本当に「声」だけでそのテープを選びとっていたのだ。
彼女が歌っていたのは桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』。考えてみれば『気まぐれヴィーナス』は素人が歌うには難曲であった。当時は誰もが口ずさんでいたヒット曲だが、桜田淳子独特の鼻にかかった歌声とコケティッシュな魅力の上に成立している楽曲で、他の人が歌うとモノマネになるのが関の山。場合によっては間抜けに響いてしまうことも多かった。
それを16歳になったばかりの少女は、実に楽しげにのびのびと歌っていた。まだ荒削りであったが、まるで最初から自分の持ち歌であるかのような存在感が歌の中にあった。
さらに言えば、声全体から大衆の心を動かすような潜在力さえ感じられた。私は自分と同じく直感のままに生きているような、野性味あふれる歌声に強く惹かれた。その声は見つけてくれる人を待ち侘びているかのようでもあり、無垢で無邪気な佇まいのままだった。
思えばそれは歌手・松田聖子の産声だったのだ。
***
松田聖子の「声」に魅了された若松さんは、早速連絡を取る。が、そこに立ちはだかったのが「強硬に反対」しているという父親だった。その壁の厚さについては中編で詳報する。
※『松田聖子の誕生』から一部抜粋、再構成。