「障害者の支援や市議選への出馬」「公務員として地元に貢献」 土性沙羅と小鴨由水、二人の女性オリンピアンが明かした「第二の人生」

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走る目的が見いだせない

 しかし、である。それからが真にいばらの道だった。

「初マラソンでは、五輪のことなんて頭になくて、一度でいいから走ってみたいと思っていたフルマラソンに出られる、そのうれしさだけでした。マラソンの練習はひと月に800キロ以上を走るんです。本当にしんどくて。レースが終わったらしばらく休める……。そのつもりだったのに、記者会見で五輪のことを聞かれて“ええっ?”って。半年後にまたフルマラソン、しかも五輪って……」

 気持ちが追いつかないまま、会社の地元大阪府や故郷・兵庫県の各知事へのあいさつに赴き、母校の小中学校であいさつし、児童と走る特別授業や、はたまた各メディアの取材やイベントに担ぎ出される日々が続いた。1カ月間練習ができず、たちまち体重は6キロ増。

「体が重くて走ると疲れる、しかも走る目的が見いだせなくて走れない。精神的に追い込まれていきました」

 五輪出場を祝って地元明石市で開かれた壮行記録会では、13人中12位の惨敗。ふがいなさに涙が溢れた。

 米国合宿を行うが、小鴨さんは監督に「五輪を辞退したい」と打ち明けた。絶体絶命の局面を救ったのが、心配して渡米した中学校の恩師の一言「両親のために走れ」。走る意味を見つけ、再び走れるようになるが、練習不足は隠せなかった。

「陸上しか知らない自分でいいのか」

 五輪本番では前半こそトップを走るも後半から失速、29位でゴール。脱水症状で医務室に搬送された。

 弱冠20歳、次の五輪を目指すだろう――そんな周囲の推測をよそに小鴨さんは練習に身が入らなくなる。

「若いからこそ、マラソン以外のことをやりたいという気持ちが芽生えてきたんです。陸上しか知らない自分でいいのかと」

 監督に退部の気持ちを伝え、94年、社会人推薦枠があった龍谷大学短期大学部の保育コースに入学した。母親が幼稚園の教諭をしていたことも念頭にあった。

 2年の時、思わぬ経験が。保育実習で教護院(現・児童自立支援施設)を訪れたのだ。10歳前後で非行歴のある子もいたが、みんな素直。ある時、五輪に出たことを話すと「走っているところが見たい」と言われた。

「この子たちが目標をもって生きていけるんだったら、また走ろうと思いました」

 96年に短大を卒業すると、福岡市に拠点を置く岩田屋駅伝部に加入した。前年に市民マラソン大会で知り合った、かつてのマラソン世界最高記録保持者・重松森雄さんが監督を務めていたのだ。ところが、

「マラソンを走ろうとすると、五輪やそれ以降のツラかった思い出がよみがえって、苦しくて、満足に走れなかったのです」

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