横尾忠則の“エッセイ論” 「自分のエゴを語っているだけ」

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 このエッセイの連載の依頼を引き受けたものの、何を書いていいのかわからなくなることがあります。書くテーマというか材料が見つからないのです。何を書いてもいいといわれても、僕は文筆家ではないので、何も浮かばない。できれば何も書かないのが、自分に一番ふさわしいというか、話したくないのかな。

 話好きの人は一日中しゃべっていても尽きることがないほど、言葉が泉のように湧きでるのかも知れませんが、僕はそんなに話題が豊富な人間でも知識のある人間でもないので、一日中ひと言もしゃべらなくても平気です。一週間でも二週間でも黙っていても別に不自由することもありません。自分で語らなくても誰かの語る本にもさほど興味がないし、知識欲もそんなにないし、知らなければ知らないですんでしまうのです。

 だけどいつの頃からか、文章を頼まれるようになりました。絵を描いたり、行動を起こしたりするその背景に何んらかの考え方があるのではないかと想像されて、創作や行動をもし言葉に置きかえることができるのなら、そのことを書いてみてくれませんかというのが文章を頼まれた最初のような気がします。普段僕は絵を描いたり、何かする時に身体を動かしたり移動したりします。これは僕に限らず誰もがそうしています。その「動き」を書いてくれないかと頼まれるけれど、それがエッセイという言葉で表現するジャンルなのですかね。

 普段、行動や思いをいちいち言葉に置きかえて、頭を使ったり身体を動かしているわけではないし、ほとんど無意識に近い状態で、あれこれやっているように思います。これをいちいち言葉に置きかえて、なぜ、このことを行っているのか、なんて考えません。でも中にはいちいち言葉に置きかえてしか行動ができない人もいるかも知れませんが、僕はそんな面倒臭いことはしません。全て気分を優先しているように思います。描くことも、考えることも、想うこともほとんど気分です。呼吸と似たようなものです。

 頭に思い浮かべるものはどうも人工的な気分ですが、肉体が優先するのは自然発生的な気分です。もっといえば僕は気分で生きています。考えが優先したり、観念を先きに構築して行動する人もいるかも知れませんが、僕にはそういうことが苦手です。よく僕はいいますが、気がつけばこんな絵が描けちゃいました、また、こんなことをやっちゃいましたと、常に頭ではなく体が先きなんです。だからその考えや行動には目的もなく、計画も計算もないのです。そこが知的でないのかも知れません。

 そんな行きあたりばったり的な生活というか人生なので、何か書けといわれてもすぐに浮かびません。でも編集者からこんなことについて書いてくれますか、と言われれば、そのことは書けます。社会とか誰かに向って発言するというようなコメンテーターみたいなことは言えませんが、そのことが正しいのか悪いのか、間違っているのかは関係なく、自分の思っていることは何んとなく言えます。これはひとりごとのようなものなので社会とか誰かに対して発言しているのではないのです。

 そんな役に立たない寝言みたいなものを活字などにするなといわれるかも知れませんが、具体的な対象のないものに向って語る言葉は、どうしても寝言のようなものになります。絵だって同じです。僕は絵を人のため、世のため、お国のためには描いていません。と言って自分のためでもないようです。言葉も同じです。僕がこのエッセイで書く文章も誰かに伝えるためでもないような気がしますが、一体何を対象にしているんでしょうか。よくわかりません。もしかしたら誰か見えない神様のような人に話しているのかなと思うこともあります。

 というのは神社にお参りして、神様に黙礼して、柏手を打って、何やらムニャムニャと、自分のことを語ったり、神様に願いごとをしたりしますが、自分のエゴを語っているだけのように思います。と考えてみると、エッセイなども神前で口にするムニャムニャとあまり変らなそうに思うのですが……。

 無意識のエゴを見えない対象に押しつけているだけなのかも知れません。それがエゴだとはっきりわかってしまいたくないので、それなりに社会や他人に向って、こうあるべきじゃないのかな、とわかったようなことを発言しているのかも知れませんよ。

 神様には同じムニャムニャでもお賽銭を差し出します。そのことでエゴを解消しているつもりですが、エッセイなど書くと逆に向こうから原稿料という形で、こちらにお賽銭がいただけます。エゴを満たして金儲けができたのです。神様にはわずかのお賽銭でエゴを捨てることができました。でも、やはり同じムニャムニャをしても、原稿料というお賽銭をもらうと逆にエゴが増幅されてしまうのです。エッセイを書くということはそれだけのカルマを積むことになります。さあ、この足で早速、神社に参ってカルマを落としてこなくちゃ。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2024年3月28日号掲載

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