渚は戻って来られるのか? 令和と昭和が舞台の「ふてほど」、実は“平成”の苦労もきちんと描いている
平成世代の渚は令和に戻ってくるのか?
昨年(2023年)劇場公開された「ゆとり」の続編映画「ゆとりですがなにか インターナショナル」では、かつての坂間と同じ中堅社員となった山岸がZ世代の新卒社員から訴えられる場面が序盤で描かれる。そして山岸も2ヶ月の謹慎を言い渡される。
かつて坂間を訴えたあの山岸が、下の世代からパワハラで訴えられるという因果応報的な展開は描写もコミカルなので笑ってしまうが、被害を訴えているZ世代の新卒社員の何人かは査問の席に直接姿を現さず、リモートで参加していることにも注目したい。まともな対話ができないことがすでに暗示されているのだ。
「ゆとり」は宮藤にとって転機となった作品である。本作以降、漫画、音楽、アイドル、テレビ番組といったポップカルチャーのあるあるネタと同じ頻度でハラスメント、LGBTQ、待機児童問題といった社会性のある話題が劇中で頻発するようになり、社会派コメディのテイストが強まっている。
「不適切」はそんな社会派コメディの極地と言える作品だが、ここで描かれる問題の萌芽は「ゆとり」の時点ですでに描かれていた。だから、平成の終わりに作られたドラマ版「ゆとり」と、働き方改革とコロナ禍を経た令和5年に作られた映画版「ゆとり」を比べると、わずか7年の間にこんなに社会は変わったのかと驚かされる。
「不適切」では昭和と令和の極端な違いが強調されているが、劇中で描かれている令和の問題は、平成の終わりに作られた「ゆとり」を間に挟むと、どのようなグラデーションで社会が変わっていったのかが、理解できる。
昭和と令和の比較で話が進むため、平成が描かれていないように見えてしまう「不適切」だが、世代で言うと現在30代のゆとり世代の中堅社員である渚たちの存在が、劇中で透明化されている平成という時代を象徴していると言えるだろう。そんな彼女が本作では一番疲弊している。
「話し合いましょう」という対話の可能性を模索する場面から始まった「不適切」だが、話が進むごとに露わになっているのが、話し合いが成立しない令和社会の構造的な問題で、それが決定的に露見したのが第9話だったのではないかと思う。
令和という時代に絶望を感じ、昭和に向かう市郎と渚だが、果たして彼女は再び令和に帰ってくるのだろうか?
どんな小さな理由でもいいので、渚が令和に戻るに値する希望のようなものが見える終わり方を期待している。
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