名将が率いた優勝チームが暗転…翌年、まさかの最下位に沈んだ球団に何があったのか?

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“4番不在”で苦戦した「1981年の近鉄」

 2年連続リーグ優勝から最下位に転落したのが、1981年の近鉄である。2年連続本塁打王になり、V2の立役者となった主砲・マニエルが複数年契約を望み、球団側と折り合わず退団(古巣・ヤクルトに復帰)した結果、打線に大きな穴が開いてしまう。

 西本幸雄監督も開幕前に「どこのチームもかなり力をつけている。差はほとんどない。最下位になるかもしれん」と不安をもらしていたが、皮肉にもそれが現実のものとなる。

 4月6日の開幕戦は、柳田豊が阪急を3対0と完封し、白星スタートも、その後は勝ったり負けたりが続き、4月下旬を2勝7敗と負け越して大きく後退した。

 5月1日から1分けを挟んで5連勝と反攻の兆しを見せたものの、同10日から6月初めにかけて3勝18敗と急失速し、前期は25勝38敗2分の最下位に終わった。

 新外国人のライアンが極端なアッパースイングで日本の野球に適応できず、開幕から4番を任された栗橋茂も左肩負傷で6月まで離脱と、“4番不在”の日替わりオーダーで苦戦を強いられた。

 投手陣も鈴木啓示、井本隆の左右のエース2枚看板が揃って不調で、井本は0勝5敗と前期未勝利。入団1年目から16年連続二桁勝利がかかった鈴木もシーズン5勝に終わり、記録も途切れた。

 後期は29勝34敗2分の4位とやや持ち直したものの、通年成績(54勝72敗4分)は、優勝した日本ハムに16ゲーム差の最下位だった。

 そして10月2日、西本監督も「今季は面目ない成績に終始してファンに申し訳ない。今後2度とユニホームは着ない」と引退を表明。毎日、阪急監督時代も含めて挑戦すること8度、ついに悲願の日本一を実現できないまま、チームを去った。

「マー君の移籍」と「マギーの退団」が祟った楽天

 2013年、星野仙一監督の下、球団創設9年目で初優勝と日本一に輝いた楽天も、翌14年はテールエンドに沈んでいる。

 24勝無敗1セーブと圧倒的な成績を残したエース・田中将大がメジャー移籍。主軸を打ち、日本一に貢献したマギーも退団と、投打の主力が揃って抜け、戦力ダウンは明らかだった。

 それでもオープン戦では12勝3敗2分の2位と健闘し、「群れを抜く選手はいないが、楽しみな存在が多い」と星野監督を喜ばせた。さらに3月28日の開幕戦では、2年目・則本昂大の好投で2対1と逃げ切り。2戦目、3戦目も勝利し、開幕3連勝の好スタートを切った。

 だが、元気があったのはここまで。直後のオリックス戦に3連敗すると、4月25日から5連敗。5月13日から再び5連敗と低迷が続く。

 そんななか、5月26日に星野監督が腰痛でリタイア。その後、腰椎椎間板ヘルニアに加え、国指定の難病・胸椎黄色靭帯骨化症にも罹っていることが判明し、7月25日まで休養するアクシデントも追い打ちをかけた。休養時点で何とか5位に踏みとどまっていたチームも、6月14日に2011年7月2日以来の最下位転落。7月2日から佐藤義則監督代行に代わって大久保博元2軍監督が指揮をとったが、苦しい状況は変わらなかった。

 星野監督復帰後の9月に17勝8敗と大きく勝ち越し、最後の意地を見せたものの、10月の5試合は全敗。同7日のシーズン最終戦でオリックスに延長10回、2対3で敗れ、5位・西武に1ゲーム差の最下位が決まった。

 前年オフに複数年契約を更新したばかりの星野監督も「直接の原因はやはり成績」と引責辞任し、計17年にわたる指揮官生活に終止符を打った。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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