【光る君へ】病気も災害もすべて怨霊のせい 平安時代の常識を紫式部はどう見ていたか
ひとりだけ怨霊の仕業を疑った紫式部
病気の原因が、怨霊の仕業などの怪異に求められたなら、怪異の力に頼って人を貶めることができる、という考え方も成立する。事実、この時代の皇族や貴族たちは、神仏や怨霊などに祈願して相手に災いをおよぼす呪詛にも悩まされた。
たとえば、道長の娘で三条天皇の中宮になった妍子は、ひどい呪詛の標的にされたという。長和元年(1012)4月、そのころ妍子の在所だった東三条殿の井戸の底から、数枚の餅や髪の毛が見つかり、呪物と判断されため、陰陽師たちが禊祓いを行ったという記事が、道長が書いた『御堂関白記』にも、藤原実資が記した『小右記』にも見られる。
これはほんの一例で、当時の権力者や中宮になった女性などは、頻繁に呪詛の対象になったのである。
ところで、紫式部は次のような和歌を詠んでいる。「亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ」。
この歌は、後妻が病気になったのは亡き先妻の恨みによるものだと信じた男が、先妻の霊を呼び出す、という絵を見た紫式部が詠んだものだ。意味は、後妻が病気なのは、いまは亡き先妻の怨霊が取り憑いたからだと男は悩んでいるが、そんなふうに悩むのは、じつは自分心のなかに鬼がいるからではないのか、といったところだ。
病気といえば怨霊の仕業だと考えるのが、この時代の常識だったのに、紫式部は、災いはほんとうに怨霊の仕業なのだろうか、じつは、思い込みなのではないか、心のなかに巣食う鬼のせいなのではないか、と考えた。亡くなった先妻の怨霊の仕業だと信じて、必死に祈って鎮めようとしている男。しかし、そんなのは男の思い込みではないか――。
ひとり紫式部だけは、時代の常識に逆らって、科学がない時代に、近代人のように冷静かつ客観的なものの見方ができていることに驚く。1000年も前に世界文学の最高峰のひとつと評される作品を書けたとは、そういうことだったのかもしれない。
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