【光る君へ】病気も災害もすべて怨霊のせい 平安時代の常識を紫式部はどう見ていたか

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 今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、登場人物が例年以上に非科学的な考え方に左右されている、と感じている視聴者も多いのではないだろうか。たとえば、第10回「月夜の陰謀」では、花山天皇(本郷奏多)が出家したが、これは亡くなった最愛の女御、忯子(井上咲楽)が成仏できず怨霊になっており、成仏させるには天皇が出家するしかない、とそそのかされたからだった。

 そんな話を信じる天皇が悪い、と思うかもしれない。しかし、平安時代中期とは、年がら年中、生活の全方位で怨霊が悪さをしていると信じられている時代だった。現代人の視点からは、きわめて非科学的に感じられるが、むろん、当時の人たちは真剣だった。

「光る君へ」では、花山天皇が出家を決意するにあたって決定的だったのは、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の言葉だった。藤原兼家(段田安則)に抱き込まれた晴明に出家を促されると、天皇はもはや従うしかなかった。当時の貴族階級以上は、それほど陰陽師に頼って生活していたのである。

 平安王朝の貴族たちは、たとえば、道具がネズミにかじられたとか、ヘビが屋内に入ってきたとか、犬が床におしっこをしたといった些事であっても、いちいち怪異現象と見做して、怨霊の仕業だと考えたり、なにかの異変を予告していると捉えたりした。とはいえ、具体的にどんな物の怪の仕業であり、それがなにを予兆しているのか、ということになるとわからない。そこで、怪異が意味するものについて、陰陽師を呼んで占わせた。

 つまり、この時代の貴族階級にとって陰陽師に占いを依頼することは、高級なジムに通うといったことよりも、なるべく歩くようにするといった、ごく日常的な必須事項だったのである。

 実際に、藤原兼家が安倍晴明を利用して、花山天皇をそそのかしたのかどうかは、史料からはわからない。脚本家の創作だろう。しかし、当時の陰陽師の役割と信頼度を考えると、いかにもありそうなことではある。

治療薬も予防接種も加持祈祷

 日常的な小さな異変まで怨霊の仕業だと考えられたのだから、当然、病気や災害はその最たるものだった。とくに病気は、医学も薬剤も発達していなかったこの時代、重ければ重いほど、生霊や死霊が取り憑いて祟りをなしていると考えられた。だから、最大の治療とは、取り憑いた物の怪を除去するための御払いの儀式、すなわち加持祈祷だった。

 当時は疫病がたびたび猛威を振るったので、加持祈祷は頻繁に行われた。「光る君へ」の時代より100年以上前のことだが、貞観4年(862)の暮れから、当時「咳逆病」とか「咳喇」などと呼ばれた咳の出る病気が大流行した。今日のインフルエンザだったようだ。そして、中流から上流の貴族のあいだにも多数の死者が発生し、宮中行事も中止された。

 だが、いうまでもなく、ウイルス性疾患の知識など、当時の医師たちが持ち合わせるはずもなく、非業の死を遂げた天皇や貴族たちの怨霊の仕業だと考えられた。したがって、鎮魂のための加持祈祷が繰り返され、さらには、霊たちを慰めるための祭事としての御霊会が行われた。京都の上御霊、下御霊神社の祭礼や、有名な祇園祭などは、それを今日まで伝えているものだ。

 また、こうした疫病の流行を予防するためにも、加持祈祷が行われた。当時の貴族たちにとって、病原菌とは怨霊や死霊、生霊だったわけで、それを防ぐためには、いわばインフルエンザの予防接種の代わりに、加持祈祷を繰り返すのが有効だと考えられていた。

「光る君へ」は現在、花山天皇が退位して一条天皇が即位したところだが、一条天皇の時代には年号が、寛和、永延、永祚、正暦、長徳、長保、寛弘と、じつに頻繁に改められた。ほとんどは疫病の流行がきっかけだった。改元もまた加持祈祷同様に、流行り病を鎮め、また予防するためのものだったのである。

 有効なのは、お産も同様だった。当時は妊婦が産前産後に命を落とすことが多かっただけに、大事な出産の際には、加持祈祷に万全が尽くされた。たとえば、藤原道長の長女で一条天皇の中宮になった彰子のお産について、『紫式部日記』に記されている。それによれば、ありったけの高僧が伴僧を引き連れて集まり、さらには山々の験者や陰陽師も呼ばれて、みな声がかれるまで祈祷したという。

 無事に敦成親王(のちの後一条天皇)が産まれたが、彰子が衰弱しているときも、加持祈祷に頼るばかりで、薬を飲ませたとは書かれていない。

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