「男が女に負けるのは情けない」 柔道・溝口紀子が感じたジェンダーギャップ(小林信也)
山口香との死闘
溝口の転機は85年、中2の時だ。憧れの山口は52キロ級。溝口は56キロ級だった。
「全日本選手権で大学生の中西美智子さんに寝技で負けた。52キロ級では同じ中2の江崎史子さんが山口さんに惜敗したけれど善戦。私は勇気をもらった……。きっと自分は世界一にはなれる。どうせなら山口さんを倒したい! そう思ったんです。憧れが目標に変わった瞬間でした」
実質体重は54キロだから2キロの減量は苦もないと思った。翌86年、念願の山口との対戦が決勝で実現した。
「立ち技なら絶対勝てると思っていたら、寝技に入った途端、山口さんの細い腕が絡みついて蟻地獄に落ちるみたいに絞められ、半落ちしました」
送り襟絞め。悔しかった。それからは徹底して寝技を強化、後に「まむしの溝口」の異名を取る。
オリンピック出場までの間に、溝口は進学先の選択で2度の転機を経験した。高校進学時には、柔道強豪校からの誘いを断った。すると、他の高校からも村八分のように門前払いを食らった。公立の進学校・浜松西高に進むが、男子部員たちは帯を丸めたボールで野球に興じ、それで稽古を終えるような緩い柔道部だった。
87年、高1での全日本選手権も僅差で山口に負けた。公開競技となった88年ソウル五輪の代表に山口が選ばれ、溝口は補欠選手として同行した。
「補欠の私は山口さんの練習パートナーでした。毎日100本以上、山口さんに投げられた。寝技も絞め技も受けた。それで山口さんの癖が全部分かりました。寝技は完コピできるほど体で覚えました。先輩たちが初めて五輪選手になっていく過程を近くで全部見た。ロールプレイングゲームをやっている感じで、それも大きな経験でした」
大学進学時も、筑波大など伝統ある大学を選ばず、全日本の合宿などで「自分にいちばん合う」と感じた野瀬清喜監督のいる埼玉大に進んだ。古い道場には、女子の更衣室もトイレもない。決して恵まれた環境ではなかった。だが1年の時、溝口が福岡国際で金メダルを取ると、学長が大喜びで施設を改修してくれた。パイオニア精神が生かせる環境が溝口には合っていた。
国王観戦で異様な雰囲気に
ソウル五輪の4年後、92年バルセロナ五輪から女子柔道は正式種目になった。代表争いは厳しい闘いだった。成長著しい同期の植田睦(筑波大)との決勝は、旗判定にもつれ込む激戦。だが、終始攻め続けた「まむしの溝口」に旗が上がった。
金メダル間違いなしと自他ともに認めて臨んだ本番は、決勝で伏兵アルムデナ・ムニョスに敗れ、銀メダルにとどまった。ムニョスは地元スペイン期待の星。試合前、会場にファン・カルロス国王夫妻が入ると異様な雰囲気に包まれた。攻めるふりはするが決して前に出て来ない、組ませてくれないムニョスに主審はなかなか指導を与えない。しびれを切らして得意の内股に行った溝口が逆に効果を取られ、そのまま試合を終えた。96年のアトランタ五輪でもケガで雪辱を果たせなかった。
〈金〉を取れなかった悔しさが、引退後フランス代表コーチを務め、現在は大学教授の傍ら、袋井市スポーツ協会会長を務めるなどスポーツ改革の先陣を担う原動力かもしれない。
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