【光る君へ】ラブシーンが2週続けては大河初? 藤原道長と紫式部の本当の関係は

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ロマンスがあったとしても熟年の恋愛

 こんなやり取りを交わせば、紫式部は道長の「妾」だという噂も立つ。実際、そういう時期があったのかもしれない。ただし、これらの歌が詠まれた時代を考えたい。道長が中宮彰子に仕えるように紫式部を召し出したのは寛弘2年(1005)ごろで、その後、道長から経済面もふくめた支援を受けて、彼女は『源氏物語』を完成させた。

 紹介した最初の歌が詠まれたとき、すでに『源氏物語』は存在し、道長はそれとからめて紫式部をからかっている。そもそも、紫式部は夫に先立たれてから彰子のもとに出仕したので、彼女が「人にまだ 折られぬものを(人がまだ枝を折っていないのに=男性とお付き合いしたことがないのに)」などとカマトトぶったのは、ユーモアを交えた演技だったと思われる。

 また、『紫式部日記』は彰子が敦成親王を出産する直前の寛弘5年(1008)7月から、およそ1年半にわたり綴られた日記だから、最初の歌も二つ目の歌も、詠まれたのは寛弘5年を下らないということになる。すると、『光る君へ』のラブシーンから22年後、道長が数え43歳、紫式部が同39歳ぐらいで、二人のあいだにロマンスがあっても、当時としては熟年の恋愛だったことになる。

 では、若いころはどうだったのか。記録が一切ないから、二人が恋愛関係にあったともなかったとも断定はできない。しかし、紫式部が若かったころの恋愛の記録は、20代前半で詠んだ歌が一つあるくらいで、そもそも二人が若いころに接触した形跡は、史料からは確認できない。

 それに、道長について山本淳子氏はこう記す。「史料から推測するところ、彼は父としての己が栄華を極めることが一家全員の幸せだと信じていたようだ。また子供たちの人生についても、男子女子ともに政略に行きて地位を極めることが彼ら・彼女ら自身の幸福であると、信じて疑わなかった」(『道長ものがたり』朝日選書)。そんな男が下級貴族の娘に本気で恋したりしただろうか。

 事実、道長は数え22歳のとき、宇多天皇の孫である左大臣源雅信の娘で、『光る君へ』では黒木華が演じている倫子と結婚。高貴な血筋を後ろ盾に得たことで、公卿の末席から権中納言に6人抜きで抜擢されている。

 また、倫子と結婚する前には、源高明の娘の明子も妻にしている。高明は藤原氏の政略で左大臣の要職を追われて太宰府に流され、その後没したから、後ろ盾にこそならなかったが、醍醐天皇の子である。すなわち明子はその孫で、それを第2夫人に抱えることが、道長の箔づけになったことは疑いない。

 このように、若き道長と紫式部が恋愛関係にあった可能性はかぎりなく低い。それなのに、ドラマを盛り上げるために二人を結びつけてしまうと、史実との整合性をとるために、どこかで大きな無理が生じないかと心配になる。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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