【光る君へ】ラブシーンが2週続けては大河初? 藤原道長と紫式部の本当の関係は
主人公がラブシーンを2週続けて演じたのは、NHK大河ドラマ史上はじめてではないだろうか。
『光る君へ』の第10回「月夜の陰謀」(3月10日放送)では、藤原道長(柄本佑)とまひろ(紫式部のこと、吉高由里子)が廃屋で密会。道長が「遠くの国に行こう」といって、駆け落ちするように誘いかけると、まひろは道長に、都で出世する「使命」を説き、駆け落ちを拒絶しながらも男女の一線を超えた。
続く第11回「まどう心」(3月17日放送)でも、二人は同じ場所で密会し、およそ大河ドラマらしくない泣きのギターソロをBGMに、熱いキスを交わした。ただ、このときは道長がまひろに、都で妻になるように誘いかけたが、正妻ではなく妾になれということだと聞いたまひろが、正妻でなければ嫌だと拒絶。道長は立ち去ってしまった。
道長が怒るのも無理はない。彼は立ち去る前、「どうすればお前は納得するのだ。いってみろ。遠くの国に行くのは嫌だ、偉くなって世を変えろ、北の方(註・正妻の意味)でなければ嫌だ。勝手なことばかり。勝手なことばかりいうな!」と、言葉を投げた。そして、道長のこの主張は筋が通っている。
道長のような上級貴族は、たとえ末っ子でも、まひろのような下級貴族の娘を正妻にするのは難しい。だから、結ばれたければ「遠くの国に」行くという話になるが、都に残って偉くなる道を選ぶなら、道長の家はまひろとの結婚を許さないから、彼女と結ばれたければ妾にするしかない。まひろの身分で道長に、都に残って道長の正妻になることを望むのは、道長がいうように「勝手なこと」なのである。
ところで、いま『光る君へ』で描かれている寛和2年(986)ごろ、道長は数え年で21歳ほど、紫式部は17歳ほどだった(紫式部の生年は特定されていないが、道長より4歳程度若かったという説が有力だ)。そのころ二人が恋愛関係にあった可能性はあるのだろうか。
道長と紫式部が交わした恋の歌は存在するが
南北朝時代から室町時代初期に成立した系図集『尊卑分脈』には、紫式部の項目に「御堂関白道長妾云々」と書かれている。「云々」とは伝聞を表す言葉なので、たしかな事実が書かれているわけではないが、「道長妾」という伝聞が室町時代にまで伝わっていたことになる。なぜ伝わったかといえば、紫式部自身が自著『紫式部日記』に、それをほのめかすことを書いているからだ。
それによれば、『源氏物語』が一条天皇の中宮彰子(道長の長女)の前に置かれているのを見た道長が、梅の実の下に敷かれた紙に以下の歌を書いた。「すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思う」。意味は概ね以下のようになる。梅の実は「酸っぱくておいしい」ので、枝を折らずに通り過ぎる人はいないと思う。同様に、『源氏物語』の作者であるあなたは「恋愛が好きだ」という評判だから、口説かずに通り過ぎる人はいないと思う。「すきもの」を酸っぱいものと好き者にかけているのだ。
紫式部は次の歌を返した。「人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ」。まだ人が枝を折っていないのに、だれがこの梅が「酸っぱくておいしい」だなんて口を鳴らしているのでしょう。私も同じで、まだ男性とお付き合いをしたこともないのに、だれが「恋愛が好きだ」なんて言いふらしているのでしょう。そんな意味である。
要は、道長は紫式部を梅の実とかけて、『源氏物語』を書いたくらいだろうから、恋愛経験も豊富なんだろう、とからかった。なかなか洒落た歌だが、これに紫式部は、恋愛なんてしらないと、カマトトぶって答えたのだ。
ただ、このやり取りだけだと、他愛もない遊びにすぎないようにも見えるが、続く歌のやりとりは、もっとずっと踏み込んでいる。
ある晩、紫式部が局で寝ていると、戸を叩く音がして怖かったという。そして翌朝、以下の歌を受けとった。「夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に 叩きわびつる」。意味はざっとこうなる。夜中じゅう、私は戸を叩くような声で鳴く水鶏よりもっと激しく、あなたの部屋の木戸を叩きながら嘆いていたのです。
これに紫式部は、次のように返した。「ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし」。実際、ただごとではないと思わせる叩き方でしたが、ほんとうは「とばかり(少しの間)」だったのでしょう。そんな水鶏が戸を叩いているのに、開けてしまったら、さぞかし後悔していたでしょう。訳せばそんなところだ。
紫式部は、戸を叩いたのがだれだか記していない。しかし、この二つの歌はともに『新勅撰和歌集』の「恋」の部に、道長と紫式部の歌として載せられている。
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