「段ボールのベッドで寝泊まり」 能登半島地震被災からセンバツへ…「日本航空石川」の奇跡を理事長と監督が明かす
兄弟校の山梨校を臨時の宿泊施設に
「まず主力やマネージャーが山梨へ移り、そこから順次、残りのメンバーも移っていった。67人の部員全員が集合できたのは、2月12日のことでした」
と言葉を継ぐのは、同校野球部の中村隆監督(39)だ。
部員の中で石川県の出身者は11名。発災時、祖母を負(お)ぶって裸足で高台に避難したメンバーや、いまだ家族が避難所で生活している選手もいる。
「山梨校の教室で寝泊まりし、午前中はオンラインで授業。その後はマイクロバスで30分ほどの所にある廃校の跡地のグラウンドで、練習を行いました」(同)
教室には寄付してもらった段ボールベッドを組み立て、そこにやはり寄付されたマットレスや布団を敷き、臨時の“宿泊施設”としたという。
「5教室を使い、1教室当たり多くて16人が寝泊まりしました。コーチなどわれわれスタッフも1教室空けてもらい、女子マネージャー2名は山梨校の寮を貸してもらいました。段ボールベッドといっても、思ったより頑丈で、凹んだりすることもなかった。乾燥で喉が痛いと言う生徒がいましたが、加湿器を寄付していただきまして。寝心地が悪いなどと訴える生徒はいませんでした」(同)
食事は寮の食堂で取り、練習後には地元のボランティアによる、カレー、豚汁や、山梨名物・ほうとうの炊き出しがあったことも。
「風呂も寮のものを貸してもらった。皆さんのサポートのおかげで、生活面で困ったことはほとんどありませんでした」(同)
“こんな時に部活をやっていていいのか”
1月26日にはセンバツ出場決定の朗報が舞い込んだ。しかし、
「正直なところ、手放しで喜べる状況ではありませんでした」
と監督は言う。
「被災して様変わりした輪島の街や、生きていくのに精いっぱいの地元の方々を見ていたので、“こんな時に部活をやっていていいのか”と思いました」(同)
そうした気持ちに変化が生まれたのは、周囲の反応がきっかけだった。
「山梨の方々からは“(出場する地元の)山梨学院だけじゃなく、日本航空も応援するからね”との言葉を。この2カ月、さまざまなサポートをいただき、“この方々のためにも頑張らないとあかんな”と思いました。私自身、近隣の輪島高校の監督から“野球をやれる環境があるなら思い切ってやれよ”“センバツで頑張っているのを見たら、こっちも励みになる”と言われて。監督は自宅が潰れ、部員にも被災者がいる。それだけの被害に遭われている方に背中を押してもらったのが一番の励みになりました」(同)
前向きな気持ちになっていったナインだが、さらなるアクシデントが襲う。
「2月の半ば、部員の間でインフルエンザがまん延し、一時、主力を含む半数が感染してしまったんです。集団で暮らしているから仕方ないですが、一度戻った体力がまた落ちてしまい、危機感を覚えました」(同)
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