「こんなに人気者になるとは世の中不思議なもんだよ」、終の棲家は新宿の都営住宅…“金網デスマッチの鬼”と呼ばれた「ラッシャー木村」の実像

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伝説のマイク・パフォーマンス

 北海道北部の天塩町で生まれ育った木村。以前に本欄で紹介したお笑い芸人のポール牧(1941~2005)は道立天塩高校の同級生だったというが、私は本人に確認していない。

 高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。幕下20枚目まで出世したが、「関取になったら相撲を辞められなくなる」と廃業する。実は力道山(1924~1963)に憧れており、プロレスラーになりたいという子供の頃からの夢を捨てることができなかったのである。

 浜口に話を戻す。浜口にとって木村は「恩人」でもあった。

 1970年暮れ、試合中に足の骨を折る大けがをして入院した木村を、若手が交代で見舞った。ある日、木村は「ハマ、飲みに行こう」と浜口を誘い、病院を抜け出して浅草の街に。向かった小料理屋で紹介されたのが、当時、店で働いていた後に浜口の妻となる初枝さんだった。

「俺たち夫婦が出会わなかったら、娘の京子も生まれなかった。木村は縁結びの神様なんです」と浜口は話した。

 さて、ここで木村の主なマイク・パフォーマンスについて紹介しよう。

「馬場、最近なんか元気だと思ったらコノヤロー、やっぱりな、お前は、ジャイアントコーン食べてるなコノヤロー」

「馬場に勝とうと思って、俺はこの正月、ずっと餅食ってんだぞコノヤロー。俺の肌を見ろよ。餅のおかげで、すっかりもち肌になっちゃちょ」

 対戦初期のころは「馬場」と呼び捨てだったが、「とても他人とは思えないんだよ。アニキと呼ばせてくれ」と発言してからは「アニキ」となる。加山雄三(86)の「君といつまでも」の歌詞をまねて、

「幸せだなあ。俺はアニキといるときが一番幸せなんだ。俺は死ぬまでアニキを離さないぞ、いいだろ?」

 と馬場に抱きつくパフォーマンスも見せた。93年、コメ不足がニュースになると、「ところで、日本のおいしいお米はどこに行ったんでしょう……?」と時事ネタを織り込んだり、「渕、お前の嫁さんを、この会場から探してやる」と独身だった渕正信(70)をネタにしたりした。

 晩年、木村は新日本プロレスのマットに上がり、猪木と闘ったころのことを思い出しながら、こんなことを言っていたという。

「猪木1人に、こちらは3人一緒(アニマル浜口、寺西勇)で闘った。邪道で気は進まなかったが、それでも人気につながらずつらかった。それが(全日本プロレスに移り)マイク一本でこんなに人気になるとは、世の中、不思議なもんだよ」(週刊朝日:2010年6月11日号)

「金網デスマッチの鬼」と言われた全盛期をとうに通り過ぎ、体力的にも厳しかった木村だったが、人生、何がどう転ぶか分からない。

 次回は漫画家の青木雄二(1945~2003)。1990年から97年まで週刊モーニングに連載された「ナニワ金融道」の作者だ。「所詮この世はゼニや」。青木雄二が生きていたら、そう言うかもしれない。
(一部、敬称略)

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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