「こたつ記事」「見ていないアンチ」に振り回され… 「ふてほど」が描くテレビ業界の深刻な悩み

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「見てない連中」「関係ない連中」に振り回されるテレビ!?

「ふてほど」が暗に問いかけているものは、テレビの「視聴者」とは誰なのか? ということだ。

(リスクマネジメント部長・栗田一也=山本耕史)
「わかったでしょう? もはやテレビが向き合う相手は視聴者じゃない。見てない連中なんですよ」

(市郎)「(テレビを見てない連中に)どうやって向き合う? だって見てないんだよ」
(栗田)「だから不毛なの! 見る人はまだ好意的、見ないで文句言う人間には最初から悪意しかない。これがバッシングの実態です!」

 倉持アナの復帰で、番組スポンサーであるビーフンの不買運動が起きかけていることも判明する。退職するにしても今のタイミングでは辞められない。

 テレビ局は、倉持アナの復帰について番組で「街の声」を集める企画を取材する。街頭で「復帰、許せる?」というフリップにYESかNOかシールを貼り付けてもらって声を拾っていくスタイルだ。「許せる」という人が圧倒的に少ない。

(女性A)「謝ってすむ問題じゃなくない?」
(女性B)「もう無理。普通に観たくないって思う」

 そこに市郎がマイクを奪って割って入り、質問を重ねる。

(市郎)「謝るってのは誰に謝るってこと?」
(女性A)「だから…迷惑かけた人とか…」
(市郎)「カミさんと(不倫相手の)スケボー姉ちゃんにはすぐ謝ったんだよな?」
(倉持アナ)「はい。許していただきました」
(市郎)「だったらもう復帰してもよくない?」
(女性A)「でも世間的には許されていないですよね?」
(市郎)「世間って誰のこと? おたくらのこと?」
(倉持アナ)「お騒がせして申し訳ありませんでした」(女性AとBに頭を下げる)
(女性B)「別にうちらは…」
(女性A)「もともとファンとかじゃないし…」
(女性B)「本気で怒っている人なんかいないっしょ…」

「世間」を隠れ蓑にして、自分の正義感を押しつけようとする人々。ドラマではそうした令和の時代の同調圧力の危うさを見せようとしている。

 不倫を許さないと怒っている「世間」とは一体誰なのか? 第8話では、リスクマネジメント部長の栗田の自宅に市郎と倉持アナが招かれた際、以前起こした不倫騒動を理由に、栗田が妻の友人夫婦につるし上げられている場面に遭遇する。

 それを間近で見た市郎は倉持に語りかける。

「関係ないんだよ。関係ないのにコメント書き込んでいる連中と一緒! 蒸し返して…。騒いで…」

 SNSの発達により、テレビは「見てない人」「関係ない人」たちとも向き合わなければならなくなった。そうした苦悩にもクドカンはちゃんと目を配っている。

 第7話で、令和の時代にやってきた娘の純子(河合優実)とデートしたイケメン美容師のナオキ(岡田将生)に、市郎が言葉をぶつけた場面が象徴的だった。

(市郎)「(純子のこと)好きなんだろう? もっと知りてえと思わないか? ドラマだったら、おまえ、途中の回だけ見たようなもんだぞ。好きならさ。1話からちゃんと見たいと思わないか普通…」

(ナオキ)「僕、ドラマって全部通して見たことがないんですね。たまたまテレビ付けたらやっていて、6話とか7話とかだけ見て、その回が好きなら、僕にとって好きなドラマです」

(市郎)「…」

 思わず絶句したそのリアクションこそ、令和を迎えたテレビ人が戸惑っている姿なのかもしれない。まともに見ようとせず、断片的に見ようとする相手とどう向き合うのか……。残り2回で「ふてほど」はそんなテレビをどう描いてくれるのだろうか。

水島宏明/ジャーナリスト・上智大学文学部新聞学科教授

デイリー新潮編集部

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