「よど号」機長の転落人生 英雄扱いから一転、2度目の愛人発覚で日航退職…最後に救いの手を差し伸べたのは
「あの『よど号』の機長がなぜ?」
南海電鉄春木駅を降りて北へ少し歩くと、低層の棟が建ち並ぶ府営住宅がある。岸和田競輪場に近いその府営住宅の一室に、石田は晩年、妻と次女の3人で暮らしていた。
「ああ、石田機長ね。この辺の人はあの有名な『よど号』の機長だってことを、皆知っていましたよ。近所づきあいは少なくて、言葉が不自由らしくて、あまり喋らなかったけれど。背の高い方で、病気の奥さんを助けながら、静かに暮らしていましたよ」
団地の住人の1人はそう語る。
岸和田に帰り体調が安定すると、石田は家族に迷惑をかけたからと、警備員のアルバイトを始めた。週6日、夜9時から朝9時まで、12時間勤務の夜警である。昼の勤務だと酒を飲んでしまうので、あえて夜警にしたのだという。
新聞のチラシで募集を見つけ、警備会社に履歴書を持っていくと、「あの『よど号』の機長がなぜ?」と驚かれたというが、結局78歳まで働き続けた。糖尿病のためインシュリンの注射を毎日打ちながらの勤務だった。
自ら下した決断と人生に悔いはない
その仕事も引退し、妻に先立たれてから自転車に乗り、近所の居酒屋に出かけるという日々を送っていた。行きつけの店は、駅前近くにある『Y』という小料理屋。その店のママはこう語る。
「“機長”は最後まで誇りというか、プライドを持った方でしたね。とてもお洒落で、店に来るときはいつもきれいなシャツにネクタイ、ダイヤが入ったカフスボタンをしていました。出かける前にはいつも風呂に入って、下着を取替え、靴をピカピカに磨くのだと言っていました。機長時代からの習慣だったそうです。
おおらかだけれども、頑固なところもある、男らしい人でしたよ。よど号事件のことはあまり話さなかったけれど、一度、『もしあの事件がなかったら?』と尋ねたことがあります。すると機長は『それはそれでいいじゃないか』と言い、自ら下した決断と人生に、悔いはないと話していました。また最後まで枯れず、『いつまでも女性を好きじゃないと、男はダメだ』と言っていました。ただ飛行機が好きなので、飛行機に乗れなくなったことは残念に思っているようでしたね」
妻が亡くなって以降、次女が勤めを辞め石田の面倒を見るようになった。冷たくされても当たり前の娘たちから親切にされることに、彼は感謝していたという。趣味は金魚を飼うことで、部屋には10個ほどの水槽があり、こまめに世話をしていた。
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